ユダヤ人たちはイエスに答えて言った。「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」(48)
悪魔はイエスの聖なる神と知っており、自分の口では言えない言葉を神に反抗する者に言わせる。
神が御子をたまわるほどに愛している者の口から、イエスを貶め罵る言葉を語らせるのである。彼らにイエスがわからないのは、神に反抗する罪を慕って悪魔の言葉に聞き入っているからである。
イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。むしろ、わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。(49)
イエスを知るのは幼子の心である。造り主である神の言葉を喜ぶことが出来るのは、真理を慕う心から出たことである。
賢い宗教家や学者たちが、自分の欲望に合わせた理屈に拠って失ってしまった創造主なる神への渇きであり、幼子に残されている希望である。
イエスを卑しめる言葉によってイエスが汚れることはないが、彼らが語った言葉は彼らを汚し貶める。それが悪魔の目的であり、彼らを神から奪い取ってゲヘナへの道連れとするためである。
わたしは自分の栄光を求めません。それを求め、さばきをなさる方がおられます。
まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」(50~51)
しかし、誰がこのみことばを悟ることができるであろう。被造物が作者を理解出来るであろうか。その大きさとその無限の力を・・、その赦しの愛の大きさと、無知な者を育てて事を成させる忍耐を・・、そうして、主とともに在る永遠の望みを・・。
霊に導かれる学問が存在するだろうか、ただ、神のキリストに信頼するみことばを聖霊によって開かれる耳が聴き取り、神に造られたままに信じてたまわる恵みを。
ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今分かった。アブラハムは死に、預言者たちも死んだ。それなのにあなたは、『だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない』と言う。
あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは、自分を何者だと言うのか。」(52~53)
宗教家である彼らは預言書によってキリストの訪れを知っていたのではないか。救い主が来られることを待ち、その救いは永遠であることを。しかし、彼らは自分たちの宗教に満足して、真理に渇くことはなかった。
だからイエスに神の御わざを見ても、かって聞いたことの無いみことばを聞いても、キリストを悟ることはなかったのである。
彼らの質問はイエスの真実を知るためではなく、自分たちが満足を得る言葉を聞くためであった。
イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光は空しい。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方を、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。(54)
神から遣わされたイエスは、神のことばを生きてみこころを成し、十字架に人の罪を負って死に、三日目に墓からよみがえって、死を打ち破り神の栄光を現わされた。
神の子らは神のことばを伝えるためにみことばを慕い求め、キリストの永遠のいのちのうちに生きて、神の栄光を現す。それは主が備えていてくださることであるが・・。
悪魔から出た言葉を語る者は悪魔を父としたのであり、悪魔と共に永遠の滅びに行く。人は神を父とすることも、悪魔を父とすることも可能である。
あなたがたはこの方を知らないが、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしもあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っていて、そのみことばを守っています。(55)
イエスは創造主である父なる神を、御わざと新しい言葉によってすべての人が、神に愛されていることを知らせてくださった。イエス・キリストを信じる者に、一方的に成就する救いである。
私たちが創造主を父とするとき、真理に導き日々のみことばを解き明かして、永遠の望みに満たしてくださる助け主、聖霊なる神がうちに居てくださる。
世に生きる罪を未だ持っている者に、これほどの奇跡は他になく、このことによって私たちは完全であり、うちに神の愛が充満しているのである。
キリストを愛している者には、聖霊はキリストとの約束に拠って、たとえ失敗をした時も見捨てて孤児になさることはない。開いたみことばを解いてキリストの平安に守られる。
あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」
そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」(56~57)
三十代のイエスに「五十にもならない」と言っているのは、イエスが若々しく神々しい御姿ではなく、完全な人であるイエスは疲れる体を持ち、ゆっくり眠る所も無く労苦して、短い生涯のすべてを人に仕えて過ごされた事実を現わしている。
年齢よりはるかに老けて見える此処にも、イエスの過酷な様子を知ることが出来る。主は癒やしの御わざをご自分に用いられることは無く、普通の人の弱さをすべて経験してくださったのだ。
ゲッセマネで最後の祈りをされるイエスの一緒に祈ってくれという願いに、応えることが出来ずに眠りこけるペテロたちの弱さを許し庇われた。
今も私たちの弱さをご存じで祈りに応えて癒やし、また時を与えて回復を待ってくださることがある。
誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マタイ26:41)
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」
すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。(58~59)
イエスは、ご自分がすべての初めの「わたしはある」と明確に、創造主であることを教えておられる。
彼らはイエスの口から出る言葉を聞いたのである。原語だからわからないのではなく、彼らが真理を求めないので、聖霊は彼らに触れることが出来ずにわからないのである。
神の時は未だであり、その時まで誰もイエスに手を出すことは出来ない。すべてのことは「ある」神によって、予め定められたストーリィに拠ることであって、神はすべての初めから終わりまでを備えておられる。
人は何のために今日を生きるのか、わずかな残りの時間に何を成すべきか、神の子らは目の前の出来事に拠って振り回されて、時間を浪費してはならない。
キリストの命をたまわった者には、伝えなければならない言葉がある。それは「神がどれほどにあなたを愛しておられるか」と言うことである。