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内に悪霊どもの入った豚を惜しんでガダラ人は、
見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。(マタイ8:34)
イエスさまが墓場に住んでいた男から悪霊を追い出した時、悪霊どもが入った豚が崖から湖に落ちて全滅したのである。そのことを聞いた町中の人は出て来てイエスさまを追い払った。イエスさまの救いのみ力を見てのことであった。
御子の十字架という血の代価を支払って、なを主は人に選択する自由を与えられた。
イエスさまがお弟子を遣わされたときも、その家に受け入れの自由を与えて「説き伏せよ」とは言われなかった。ただ、耳を傾けない家には塵ほどの救いも残らないが・・。
もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。(マタイ10:14)
私たちがみことばを否んでも主は争うことも罰することもなさらない。その人が救われることを望まないなら、十字架による一方的な救いのご計画もその人に成就することはない。それは、その人のためにも犠牲を払われたイエスさまの悲しみであるが・・。
豚を惜しむ者は、「私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:17)このイエスさまを追い出すことになる。
思い患いや、病から来る死まで負ってくださる方を追い出して何が残るだろう。彼らの貧しさや心の痛み苦しみは自分自身で選択したことになるのだ。
みことばを軽んじることは言葉なる方イエスを追い出すことである。