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「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう」(ルカ22:67)
聖書は人の賢い頭だけで読むと罠に嵌る。キリストの救いは信仰によらなければ得られないからである。
ちぐはぐに見える箇所があり、一致していない記述がある。それらは取り繕うことなく何千年もそのままにされている。それが神様のご計画によることだからである。
それは信仰以外によって救われることのないように、ふるいに掛けるために準備されたものである。
善悪を知る知識の木の実の賢さによって神を知り、救いに至ることのないようにされている。
その時真実な心で、困惑しつつも謙遜にイエスさまに聴くなら、それらは罠とは成らない。今も生きて働くイエス・キリストの助けや祝福を経験させてくださり、幼子でもわかるようにご自身を現してくださるからである。
イエスさまは、私たちが聴くために静まり座ることを待っていてくださる。聖書は学問の道具ではなく、神様との霊のまじわりに導く書である。
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(マタイ11:25~26)
人の賢さは「さあ、この矛盾を説明せよ」と、キリストを否定するために求めるが、心の中で「キリスト(救い主)は居ない。」と言うだけでその人に救い主はいない。
どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)
キリストの証明は、信じる者に与えられる平和と永遠の望みにある。しかし、それは信じなければ知ることはない。