石ころ

迫害の中の平安(Ⅰペテロ1:1~2)

 

みことばはいきなり腹にストーンと落ちて、説明も解説も聞いていないのに、その恵みによって生きていることがある。

このようなみことばは消化してしまったように忘れていても、必要に応じて聖霊が思い出させてくださり、自他に向かって水戸黄門の印籠のように掲げ「これが目に入らぬか」と言う力を持っている。

そのようなみことばに、人の言葉を付け加えることは蛇足のように思うが、それでも愛する方の恵みを語りたくてたまらないので、余計なお世話を書いている。

 

 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、ガパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、
父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに倣うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。
恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。(1~2)

 

迫害を受けて散らされそれぞれの地で、命を脅かす苦難の中にある人たちを励ますペテロの手紙は、彼自身が迫害の中にあって、キリストにある望みを確信に満ちて綴る一言ひとことには迫力がある。

 

迫害が神に選ばれたことから発していることであり、イエス・キリストのきよめと、あがないの血による恵みと平安の中で、神をほめたたえる信仰は、その最悪の中で「ますます豊かに恵みと平安が与えられる」とある。

 

迫害の中で神を喜ぶ喜びと、恵みと、平安がますます豊になると、言い切ることができるのは、ペテロが経験していることだからである。
すべてが、愛してくださるキリストに似せられて行く過程にあるなら、苦難はどれほどの誇らしい喜びと平安となることであろう。

 

誰のために生きて誰のために死ぬのか。いのちをたまわったキリストのために死ぬことは、永遠の祝福の中に生きることであり、それほどに満ち足りた生はないだろう。

そのような勇気は、苦難に在る者をハラハラと心配してくださる、キリストの眼差しを感じていることから出るのである。

 

この恵みや感謝は、試練の中で出会うキリストにより経験することであって、怠惰の中では決して経験できない恵みであり平安であろう。

以前「試練を願うな」という言葉を聞いたことがあるが、それならキリストとの近しさと、みことばの慰めを経験することにも限りがあるだろう。

 

わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(ヨハネ14:27)


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