石ころ

探し出された一匹の幸い

 

あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。(マタイ18:12)

 

人は九十九匹の方が大切なので、迷い出てしまった一匹を諦めることが出来るが、神には一匹一匹が神の完全な愛の対象であって、見捨てることが出来る命など一つも無いのである。

 

まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。(13)

 

神には迷わない九十九匹以上に見つけ出した一匹が神の喜びとあり、それは元通りに百匹揃って良かったということではない。

 

このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。(14)

 

神のみこころは人の考えや判断とはまったく違っている。九十九匹が迷わず従っている中で、この迷い出て神の手を煩わせる役立たずの存在が神を喜ばせたのである。

イエスは自分をどうすることも出来ない病人に来てくださった。誇るものを持たない弱さの中に救い主として、神の喜びとするために来てくださったのだ。

 

医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。(マタイ9:12)

自分で歩める九九匹は山に置かれて、それらは主に探し出され運ばれる救いの経験をしていない。
しかし、すべての人は自分の命を救えない罪の病人であり、イエスに探し出されご自身のうちに運ばれて救われる命なのである。

 

イエスの救いを経験した羊は百匹のうちの一匹に過ぎない。神が探しておられるのは自分を救うことが出来ない一つ一つの命であり、イエスに自身を委ねて運ばれる弱さは神の喜びとなれる。

 

弟子は天では誰が一番偉いのかと尋ねたとき、イエスは子供たちを呼んで言われた。

「誰でもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」(4)

 

高ぶるものを持たない子は、ことさらに自分を低くする必要もなく、呼ばれたらすぐに来て恵みに身を委ね、みこころのままに運ばれる主に安息して神を喜ばせる。

 

その子らの誇りは、天地創造をみことばのままに信じる愚かさであり、処女からイエスが産まれることも神には出来ると知っていることである。
海が割れてモーセたちが海の底を歩いたことを信じ、荒野で40年間民を養った神に、今養われていると満ち足りていることである。

 

聖霊と火のイエスのバプテスマによって新しく生まれる経験をたまわり、異言の祈りに何の疑問も持たずに祈り、携挙を待ち望みつつ世に在る主の備えを楽しみ、新天新地に待つ神との永遠を思い描いて幸せに包まれている。

 

イエスの一方的な憐みに与った身の幸いは、日々のみことばを開く度にあふれる喜びであり、それゆえに、どのようにか一人でも多くの方々と、この大いなる御救いを分かち合いたいと、イエスに運ばれている祝福の中で切に願うのである。


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