ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。(31)
イエスが受けられる栄光は十字架であり、それはまだ起こっていないけれど、サタンが働き始めることを止められなかったので、それはすでに起こったこととなる。
神が死ぬべき体を纏って地に下ってくださったイエスの栄光は、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、弟子に裏切られ、負われた罪のゆえに御父に見捨てられて死ぬことである。
しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。(イザヤ53;10)
主はユダがこれから果たす役割をすべてご存じであり、恐れと苦難の十字架に向かって進まれる。それは人には祝福の計画であり、イエス・キリストの死と復活によって永遠のいのちへの門は開かれた。
御子の十字架のあがないを受け入れて礼拝する者を、父なる神はみな御許に招き入れ永遠のいのちに生かしてくださる。それが神の初めからのご計画であったから。
神に逆らって罪に滅びゆく者を憐れんで、ご自分の作品を取り戻されたのである。
神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。(32)
父なる神が御子イエスにお与えになる栄光はキリスト者である。キリスト者の感謝と賛美と尽きることの無い喜びであり、使徒たちの殉教に至るまでの信仰である。
子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。(33)
弟子がイエスを探すのは墓の中である。弟子は死者の中に神のキリストを捜すが、イエスは三日目に死からよみがえって弟子に現れ、死を打ち破って栄光を現される。信じる者をも主の復活によって生かしてくださるのである。
主に拠ってキリスト者は死に閉じ込められる者ではなく、神の御許で永遠を生きる者となるこれぞ十字架の栄光なのである。
わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(34~35)
キリスト者の愛し方はまず七の七十倍赦すことであり、聖霊に示されるままにみことばを互いに語り合うことである。共にみこころを成し遂げて御国にゴールインするためである。
シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」(36)
弟子には時が与えられた。それはみこころを成し遂げて栄光の冠を受けるためであり、地にはその名が終わりの日まで語り継がれて、聖書によって多くのキリスト者を産み出し、世に救いを宣べ伝えて主の御名がほめたたえられるためである。
ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」(37)
ペテロは自分を知らなかった。すべてのキリスト者の良き働きは聖霊の助けによって、成すべきことを導かれ、宣教の言葉と力と知恵をたまわらなければならないのだ。
みことばは肉の働きに拠って語ることではなく、神から発した言葉を霊の耳で聴いて語るものであり、聖霊の導きによって命を用いるのである、神は霊だから霊によって聴くのである。
イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(38)
イエスの言葉を覚えることによって堕ちた所から我に返ることができる。人は皆この肉の体のゆえに恐れ、思い煩う弱さを持って生きている。
主は罪は犯されなくてもその弱さは知っていてくださるゆえに、すべての初めに避け所であるみことばを備えてくださる。
だから朝毎にみことばを聞き続ける。今日、イエスを否むような罠が待っているかも知れないからである。