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律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
心を尽くすこと、思いを尽くすこと、大切な事が繰り返されているように感じた。それがどれほど重要であるかということなのだ。
心の思いのすべてを堅く主に据えること。どんな日もそこに目が釘づけられるほどに・・。そうするなら、知性や力は神様から自ずと流れてくるだろう・・、それは愛の応答である。
次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
自分を愛していない者は隣人をも愛せないということである。神様が愛される愛で自分を愛することはそんなに容易いことではない。
キリストの十字架を通して「ひとり子を賜るほどに神に愛されている」ことを悟る時、自分自身に満足して休らうことが出来るようになり、失敗しても恥をかいてもそんな自分を許して、主と同じ目で自分自身を見ることが出来るようになるのだ。
隣人のために祈るのは、自分自身がイエスさまに取りなして頂いて居るからであり、イエスさまを真似てのことである。
そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。
また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」
イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。
彼が繰り返した言葉に「思いを尽くし」が抜けている。それは小さなことではない。
イエスさまが「律法学者に気を付けなさい」と言われたのは、彼らの正しい言葉には思いが抜けて、見栄を飾る言葉になっていたからである。
みことばは賢い理解のためのものではなく、「神の国から遠くない」そんな所にいても意味はない。
みことばをいのちのように心の真ん中に迎え入れて、私たちは神の国に入るのである。
彼は正しい言葉を知っていたけれど、「いのちの言葉」であるイエスさまから何も悟ることはなかった。
「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、
また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。
また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」
マルコ12章は、宗教者の不毛のような議論が続いてイエスさまを喜ばせるものは何もなかったが、最後に組織もなく、力もなく、彼らのような知識もない一人のやもめが出てくる。
それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」
十字架へ向かわれるイエスさまへのはなむけのような捧げ物である。名も無く貧しいやもめのレプタ2枚は、どれほどイエスさまを喜ばせたことだろう。弟子を呼び寄せる弾んだ声が聞こえて来るような箇所である。
全財産を捧げたやもめの光栄は、イエスさまのお喜びであった。