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主は、心優しくへりくだっておられるお方。主のくびきを負って歩むとき、当然、私も心優しいへりくだった歩みとなるはず。すべてののぞみは主にある。
「わたしの力は弱さの中に完全に現れる。」それはイエス様のお約束だから、私が弱い時こそ、主の力が完全に働くことになる。頑張りは要らない。今の弱さのまま主に居よう。
サマリヤの女を用いるお方は、自堕落で弱く評判の悪い女の所にわざわざ来てくださった。女のすべてを露わにして、そのままで完全に受け入れ、主に何も隠し立てする必要がないことを教えてくださった。イエス様の周りにはそのような人々が喜んで集まった。イエス様も彼らを求められた。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」と言われる。
だからイエス様の前では、安心して病んだ自分をさらけ出していても良い。そうすれば主が癒してくださるから安心して休めばよい。
イエス様は、サマリヤの女の問いに答えて信仰の奥義を話してくださった。(ヨハネ4章)自分の罪深さを悲しむ者に、主はかぎりなく憐れみ深く、癒しをもって必要を満たされる。主から奥義を聞く者はパリサイ人や律法学者ではなかった。
イエス様からみことばを聞いて罪の責めから解放された女は、人目を避けることをやめてイエス様を町中に知らせた。彼女が主に用いられたのは、恐れずにイエス様に問うたからだと思う。イエス様との交わりを楽しんだからだと思う。
姦淫の女は、罪を責める人々が去ってもイエス様の前に居た。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」とのみことばを頂くまでじっとお側にいた。イエス様ご自身から「行きなさい」と言われるまで動かなかった。(ヨハネ8章)イエス様が行きなさいと言われるとき、その力さえあらかじめ備えてくださる。だから安心して出て行ける。
渇いた心で主を待ち望むだけで良い。何も出来なくても、何も分かっていなくても、イエス様の方から見つけだして来てくださる。そして、主にお会いしたら、恥ずかしがらずにありのままで交わればよい。唯一、本当の私の姿をご存じで、癒すために来てくださったお方なのだから。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(Ⅱコリント3:18)
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