さくらは6歳。食事は大人の食事と全く同じ、両親がちょこっと横から助ける程度。刻んだり混ぜたり味付けを変えたりせず、素材の味をそのままに食べさせる。時間がかかってもしっかり食べさせる。私も嫁さんのその基本方針に忠実に従う。それは最善だと思うから。
食事をしっかり取っているから、ケーキもアイスも果物も「いらない。欲しくない。」の連発。たまに少し食べても「お代わりするほど欲しくない」と言われてしまう。
なかなか食事が進まないから「ああ、美味しい!」と私が食べてみせると「自分で作って、自分で美味しいと言っているの?」と言われ私は強烈なパンチをくらった。
大きな声を出すこともなく、口答えをすることもなくて、妹を良く可愛がる子だけど、時々ドキッとするようなことを言う。
嫁さん曰く「私の言えないようなことを言うことがある」とのこと。昔、私も祖父に「あんたの言葉はきつい。」と言われたことがあったことを思い出した。
愛するものが多くなるということはとても嬉しいことだけれど、また心配事も増えるということ。愛することは辛いことでもある。神様に愛する者を祈りつつ手放し、お委ねするときにはじめて安息することができる。
そして良いバランスをもって愛することができるのは、主が家族の中に働いて取りなしていてくださるからであり、互いに自分自身の思いに捕らわれることなく縛りあうこともないからなのだと思う。平安は、自分で抱きしめると途端に失ってしまってしまうものだから。
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父なる神様は、御子イエス様を「これは私の愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と言われた。その御子を私たちの救いのために「神なら十字架から下りてこい」と叫ぶ人々の嘲笑と、激しい苦痛の十字架を負わせられた。
十字架を下りないでみこころを成し遂げる御子は、人の罪の故に義なる神様に捨てられ、十字架では「父」と呼ぶことを許されずに「我が神」と祈られた。愛する御子を捨て去る神様のお心はどれほど痛まれたことかと・・・嬉しい子供達との交わりの時間の中でそのような思いがずっとあった。