
兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして、言った。「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。」(Ⅰサムエル17:28)新改訳
ダビデは兄の恫喝するような言葉を受け入れなかった。主に在って耳を貸してはいけない言葉がある。侮りや責め言葉に自身を任せるべきではない時がある。
主にある者は神様の評価のみを受けいれ、ほめ言葉も侮りの言葉にも動かされるべきではない。
園では蛇はエバに寄り添うように話しかける。しかしエバは蛇の言葉を無視するべきであった。
それが出来なかったのは、彼女が神様を正確に知らなかったからである。敵はある時は恫喝を持って、ある時は擦り寄るような優しい言葉をかけてくる。身を守って神の栄光を現すのは、ダビデのように主に在って生きた経験である。
このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。(Ⅰサムエル17:36)
ダビデは羊の世話をしていないと責められた。世の物に優先して父の言葉に従うことは正しい。何に従うべきかということが、主に在る者には最も重要なのである。
何でも聞き誰の言葉にでも心を動かしたり、同意して反省してはならないのである。
彼は、今日まで守られた主のみこころをもって「神の民をなぶっている」巨人ゴリヤテに対して怒った。怒るべき時に反省していてはならない。自分の働きを覗いて引き下がってはならない。
神の民は世の巨人を恐れてはならないのである。
絶えず主と居る者は戦われるのは主であることを知って居る。人は主の勝利の時を準備する必要がある。