石ころ

わたしは世の光です ①(ヨハネの福音書8章)

 

イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(12)

 

此処に姦淫の女もいただろう。イエスに赦された者は闇を嫌って光りを求めるようになる。神の愛が溢れる望みのみことばを聴き続けていたいから。人々に混じって耳を傾けていたであろう。闇から光りの中に移されみことばを生きるために。

 

すると、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」(13)

 

宗教家たちはイエスによって語られる神のことばを否み、イエス・キリストに権威を返すことを拒んで、律法からイエスを否定する材料を捜している。
しかし、律法を成し遂げるのはイエスである。

 

わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。(マタイ5:17)

 

イエスは彼らに答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。(14)

 

イエスは誰に対しても常に真実を語るが、それはイエスを求める者に働く霊に拠らなければ理解できない。イエスはみことばと御わざを持ってご自身を証されるが、否定する者を説得することはない。


キリストを求めることも拒絶することも、神が創造の初めに備えられた自由であり、御子をたまわるほどの犠牲を持って備えられたことで、人はそれぞれの意思によって愛するものを選び取る。

 

あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。(15)

 

彼らは、目の前で姦淫の女に対するイエスの救いを見ている。すべての人が侵されている罪の病いから救い出して、永遠のいのちを与える医者として来てくださった事を見た。

さばいて殺すためではなく、罪をあがなって生かすために来られたのである。
しかし彼らは、目の前のイエス・キリストの赦しが、自分たちの救いでもあることを悟ることはなかった。

 

たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。(16)

 

そのさばきは終わりの日に彼らを待っている。彼らに在る厳しいさばきは神によるさばきであり、彼ら自身が選び取ったことであって、神の愛によるキリストを拒絶した結果である。

イエスを拒絶した者は終わりの日の裁きの座で、イエスが神と共に居られることを目の前にすることになる。しかしそれは神の望まれたことではなく、それゆえに罪深いことなのである。

 

あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています。
わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。(17~18)

 

「あなたがたの律法」とある。彼らの肉の裁きにおいてもふたりの証言に拠ってなされる。それゆえイエスも父なる神を証された。
しかし、彼らは自分たちの間にある証人を知っていても、造り主である神を知らず、人となられたひとり子の神イエス・キリストも知らない。いや、知ろうとはしない。

 

しかしイエスに聴く者は、みことばから父なる神のことばを聴き続けて、愛と赦しの平安、永遠の望みをたまわり、聖霊によって私たちが神の子であることも証していてくださる。

 

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ8:16)

 

すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」(19)

 

やがて全てを知る日が来る。しかし、今キリストを知ろうとしない者は憐れである。
イエスによって父なる神を知る者に、キリストの救いのわざはすでに完成しており、みことばの約束は成就しいる。

世に生きる今も罪の重荷から解かれ、日々に養われ、主を知る者に育てられてられる神の子の座を否んだからである。

 

イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。(20)

 

神のスケジュールによって生きる者はどのような状況に陥っても、それらによって滅ぶことは無く、ただ神の良きご計画の中に生も死も定められており、此処にキリスト者の自由な働きがあり平安があるのだ。

 

彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」(エレミヤ31:34)


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