主は、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアを私にお見せになった。サタンが彼を訴えようとしてその右手に立っていた。(1)
神の使いの前に引き出されて立っている大祭司ヨシュア。ゼカリヤが見せられた場面は、サタンがヨシュアを裁く裁判であった。
主はサタンに言われた。「サタンよ、主がおまえをとがめる。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめる。この者は、火から取り出した燃えさしではないか。」(2)
神はエルサレムを選ばれたように、ヨシュアもリーダーとして選ばれた。此処に神の権威が存在しており、サタンはヨシュアを選んだ神を訴えているのだ。
ヨシュアはきよめの火の中にある者であって、そこから取り出して訴えるのかと、神はサタンの行いを裁かれる。
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。(エペソ1:4)
全焼の捧げものとなられたのはイエス・キリストであり、その完全な死からのよみがえりによって、十字架の御救いに応答した人の罪は贖われている。
しかし、未だ世に生きている者は聖霊の炎から取り出された燃えさしである。世に触れる度に汚れを焼かれきよさを保っているのである。
サタンは、ヨシュアをきよめの火の中から取り出して、その燃えさしを指して訴えようとするが、彼を贖われた主が新しい衣を着せて覆われる。
ヨシュアは汚れた服を着て、主の使いの前に立っていた。
御使いは、自分の前に立っている者たちにこう答えた。「彼の汚れた服を脱がせよ。」そしてヨシュアに言った。「見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。」
私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。(3~5)
キリストは、世に在って訴えられている者に寄り添い弁護していてくださる。世に生きるキリスト者は燃えさしであっても、日々の罪を覆われて神とのお交わりを楽しむ者である。
サタンに反論することは出来ないのは、その衣に世で揺れ動く心から滲み出る燃えさしの臭いと、灰になっていない黒い燃え滓が纏わりついているからである。
主の使いはヨシュアを諭して言った。
万軍の主はこう言われる。「もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたもまた、わたしの家を治め、わたしの庭を守るようになる。この立っている者たちの間に出入りすることをわたしはあなたに許す。」(6~7)
サタンの居る世に出入りしつつ、神のお交わりが許されているキリスト者。みことばに従って生きることを願うなら、聖霊の助けの中でみこころを行って主のうちに住む者である。
此処では主が着せてくださった新しい衣を着せられ罪を覆われた故に、もう世に在っても訴えるものに怯えない。
聞け、大祭司ヨシュアよ。あなたも、あなたの前に座している同僚たちも。彼らはしるしとなる人たちだ。見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝を来させる。(8)
もうしばらくするとすべてを完成される主が来られる。主に身を避けつつ、世と格闘して来た者の信仰が完成される日が来る。
見よ、わたしがヨシュアの前に置いた石を。一つの石の上には、七つの目がある。見よ、わたしはそれに文字を彫る。──万軍の主のことば──一日のうちに、わたしはその地の咎を取り除く。
その日には、──万軍の主のことば──あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木といちじくの木の下に招き合う。(9~10)
主の養いに招き合って主の救いのわざを語り合い、救い主をほめたたえて喜び合うとき、互いの衣は真っ白く彼らの告白を訴えるものはいない。やがてその日が来る。完全とされた者の永遠の交わりが待っている。
だから今は互いにキリストの愛と忍耐と寛容に倣って、不完全な燃えさしを見て心を痛めながらも、互いの中に居られるキリストを見上げ、祈りの中で待っている。完成される日の交わりを待ち焦がれているのである。
その呻きはやがて歓喜の歌となる。主をほめたたえる大合唱となる。音痴はいない。音符が読めないと嘆く者もいない。みな主をほめたたえる不自由から解き放たれて、主を喜ぶ喜びを心のままに表現出来る日が来る。主が備えてくださった天の住まいで・・。
その賛美は昼も夜も尽きることは無く、疲れることも飽きることもない歓喜は、神の愛に満ち足りて尽きることが無いからである。
その合唱はまるでひとりの人が歌っているようであろう。創造主なる神の愛を知る喜が完全に一つ心となるからである。
これが主への捧げもの。造られたものたちの捧げものである。これが救い主なるキリストへの捧げもの。救われた者は永遠の捧げものとなる。