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イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ9:20~22)
「神からのメシア」になぜこのようなことが起ころうか・・、弟子が信じられなかった。病を癒し死者さえも蘇らせる方が、なぜおめおめと苦しみ殺されるのか・・、あまりに現実的でないことゆえに、そのような死が前提での復活に、その時の弟子の信仰は及ばなかった。
それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。(ルカ9:23~24)
「わたしに付いて来たい者は・・」それは自由意志によって、「自分を捨て・・」自分を捨てることは自分に付随するすべてを含むことである。弟子達は職業も家族も捨ててイエス様に付いて来た人たちであった。
「日々、自分の十字架を背負って」十字架は死である。一日一日自分の死を背負ってイエス様の足跡を踏んで行く。
此処に弟子達のもうひとつの捨てるべきもの、自分の計画、自分の夢、イエス様に対する計画が残されていた。
人は自分の良い計画を捨てなければ、神の計画が成ることはないのだ。それは両立はしない。
この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。(ルカ9:28~29)
イエス様は「神からのメシア」としてのご自身の御姿を彼らに見せてくださった。確信を与えるためである。
すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。(ルカ9:35)
また、御父も彼らに御声をかけて御子に「聞け」と命じられた。
主は御真実であるから私たちの弱さをご存じで、ご自身を現し確信を与えてくださる。
イエス様は二度繰り返し十字架のことを話されたけれど、弟子達は真正面から受け取ることをせず、尋ねて知ろうとはしなかった。
神様の「聞け」と命じる御声を聞いていたのに・・。
知ろうとしないから、自分たちの捨てるべきものがわからず「誰が偉いか」などと、自分の計画を握りしめて悟れずにいるのである。恐れずに「お話し下さい」と、その日のために備えるべきであった。
それでも、主の良いご計画が人の上に成就することは深い感謝である。主の忍耐によることである。
「思い」は毎日姿を変えてやってくるから、その思いの死をいつも身近に置いているならそれが身の避け所となる。
主の御足跡を日々主に尋ね求めながらたどる時、みことばを解き明かし御わざをもって、今踏む道を一歩ずつ「これに歩め」と言う声を聞き続けるようになる。