そこに一人の律法学者が来て言った。「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」
イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」(19~20)
完全な人でもあられたイエスが働かれる日々に、家族団らんの家は持っておられなかった。
ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカ2:6~7)
ご自分が造られた地にすべての人を救うために来られた時、初子にベットを提供する人はなかった。
それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。
すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。(23~24)
嵐に持て遊ばれる小舟の中で、果たしてぐっすり眠ってしまうことができるだろうか。このことによって、どれほどにイエスが疲れておられのだろう・・と胸が詰まった。
私たちと同じ疲れを知っていてくださり、空腹を知ってくださり、痛みも悲しみも経験してくださった人間イエス。そこまで人の弱さを経験してくださった神だから、私たちには望みがあるのだ。
イエスは十字架を目前にして、ゲッセマネで血の汗を流して祈って居られる間も、眠ってしまった弟子たちに人の弱さを知っていてくださるイエスの言葉は温かかった。
誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」(26:41)
弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。
イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。(25~26)
キリストと一緒なら世にも平安がある。目にどのように見えていようとも、人の望みはキリストの中にすべて備えられている。
天変地異が起ころうと、悪政であろうと、病であろうと、天地を造られた方、すべての命の造り主である方が、今は信仰者のうちに住んでいてくださる。
わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。(ヨハネ14:2)
地上の家は誰にとっても束の間の安らぎであり、それは絶えず命にも、物にも、もろもろの脅威に脅されている。
それゆえイエスはご自分のすべてを差し出して、人には永遠の安らぎとなる天の住まいを準備して、十字架の救いを備え招いてくださっているのだ。