ハンガリー建国の歴史は、ここ、エステルゴムから始まったと云っても過言ではないであろう。
この地には、紀元前350年頃より、すでに人々は住みつき、ローマ時代の1~4世紀には、
この地はSolva (ソルヴァ)と呼ばれ、城もあったと云われている。
アールパード王朝の大首長 Géza (ゲーザ)はここに、王座を置き、息子のSent István
(イシュトヴァーン)王は1001年1月1日に彼の戴冠の場とし、丘の上に宮殿と聖堂を築いた。
以後、ここはハンガリー・カトリック教会の中心的な役割を担ってきた。
過去の歴史に裏づけされた壮大なモニュメント、かけがえのない宝物、文化的伝統を有する町
の雰囲気は、全国からの多くの巡礼者、外国人観光客を集めている。 (人口31,000人)
<百一番札所; (Főszékesegyház, Bazilika) 大聖堂>
ハンガリーで最初で、もっとも大きな大聖堂である。 新古典様式のバジリカは町のどこから
見ても、厳威で、雄麗で、毎年のカレンダーの12枚の絵からは欠かすことが出来ないものに
なっているようだ。
大聖堂は奥行き118m、幅49m、ドームの高さ100mで、入口は通常、向かって左側の塔
(塔は左右2つあり、高さは57m)とアーケードで繋がった横の部分である。
現在の大聖堂は、1822年~1869年に4人の大司教によって建てられた。
1856年には、作曲家 Liszt Ferenc (リスト・フェレンツ)が奉献儀式を兼ねたミサで、曲を
提供したという話は有名である。
主祭壇の上部の絵は、Grigoletti 作の「聖母マリアの昇天」で、大きさ 13X6.5m は世界で
最も大きい1枚キャンバスの油絵である。
大聖堂正面 南側からの大聖堂
西側(祭壇側)外観 北側から
王宮側(南側)からの大聖堂 内陣(入口側) 1万本のパイプオルガンは世界最大。
内陣(祭壇側)
翼内陣に嵌めこまれた Bakócz Kápolna (バコーツ礼拝堂)
1506~1511年に聖母マリアを祀り、礼拝堂は作られた。 しかし、1543年のトルコの攻撃が
進む中、礼拝堂の破壊を避ける為に、大理石に番号を附って1600片に割り、トルコ支配の130年
の間、隠しておいた。 トルコ軍が撤退した後に、内陣内に再度、組み合わせ復元させた。
それは1822年の施工であり、大聖堂の再建と同時進行であった。
但し、今の礼拝堂の位置は、オリジナルの位置ではない。
(夢のような話で真実かどうかの詮議はやめて、国民誰もが、真実と願っていることだろう)
祭壇の向かって右側にある宝物館には、数多くのアールパード王朝から伝わる眩いばかりの
宝物(約350点)が展示されている。
丸いドーム(直径53.5m) は展望台になっており、360度のパノラマである。
南東に広がる市街地 (ドームの展望台から)
南に見える Mária Valéria 橋と、渡ればスロバキア
東側表参道
以下は教会ではないが、エステルゴムを紹介する上で、切り離すことの出来ないスポットとして、
少しでも触れておく必要があると思う。
<Visegrád Fellegvár (ヴィシェグラード・フェッレグヴァール)要塞>
このあたりは、「ドナウの曲がり角」と呼ばれており、ドナウ川は90度、南に曲がり、ハンガリーの
国土を縦断して行く。 山頂に立つ要塞からの眺めは、ハンガリーで一番美しいと云われている。
要塞は、1250~1260年代にベラ4世とビザンツ帝国からの妻マリアが建てた。
アールパード王朝の衰退後、ナポリのアンジュー王朝から来たカーロイ王の時代(1308-1342年)
からマーチャーシ王の時代(1458-1490) まで、要塞と王宮(次に出てくる)は拡張、モダン化された。
要塞から「ドナウの曲がり角」を望む
国道11号線より要塞を望む
要塞の門よりドナウを望む(向こうはスロバキア) 要塞の頂上
< Királyi palota 王宮>
カーロイ王が1325年頃、住居にしていたものを、宮殿として建て替えた。
その後、トルコの来襲までは、拡張、造園が続いた(ハンガリーが最も、輝いていた時期)
トルコの支配時代は使われることなく廃墟化していった。
ハプスブルグからの自由戦争(1703~1711年)時に、要塞共々、破壊され埋められて
しまった。 1934年に発見されて以来、発掘が続いている。
王宮外観と向こうの山の上に要塞が見える。 王宮内部(発掘された遺物も多く展示。
王宮から見た発掘現場
< Salamon torony シャラモン塔>
要塞の下に、要塞と同時期の13世紀に建てられた。 ドナウ川航路監視塔である。
これで、「エステルゴムの教会」はお終い。