撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

Esztergom (エステルゴム)の教会

2013-03-10 16:28:17 | 海外生活

 ハンガリー建国の歴史は、ここ、エステルゴムから始まったと云っても過言ではないであろう。

この地には、紀元前350年頃より、すでに人々は住みつき、ローマ時代の1~4世紀には、

この地はSolva (ソルヴァ)と呼ばれ、城もあったと云われている。

アールパード王朝の大首長 Géza (ゲーザ)はここに、王座を置き、息子のSent István

(イシュトヴァーン)王は1001年1月1日に彼の戴冠の場とし、丘の上に宮殿と聖堂を築いた。

以後、ここはハンガリー・カトリック教会の中心的な役割を担ってきた。

過去の歴史に裏づけされた壮大なモニュメント、かけがえのない宝物、文化的伝統を有する町

の雰囲気は、全国からの多くの巡礼者、外国人観光客を集めている。  (人口31,000人)

 

 <百一番札所; (Főszékesegyház, Bazilika) 大聖堂>

 

  ハンガリーで最初で、もっとも大きな大聖堂である。 新古典様式のバジリカは町のどこから

 見ても、厳威で、雄麗で、毎年のカレンダーの12枚の絵からは欠かすことが出来ないものに

 なっているようだ。

 大聖堂は奥行き118m、幅49m、ドームの高さ100mで、入口は通常、向かって左側の塔

 (塔は左右2つあり、高さは57m)とアーケードで繋がった横の部分である。

 現在の大聖堂は、1822年~1869年に4人の大司教によって建てられた。

 1856年には、作曲家 Liszt Ferenc (リスト・フェレンツ)が奉献儀式を兼ねたミサで、曲を

 提供したという話は有名である。

 主祭壇の上部の絵は、Grigoletti 作の「聖母マリアの昇天」で、大きさ 13X6.5m は世界で

 最も大きい1枚キャンバスの油絵である。

 

 大聖堂正面                             南側からの大聖堂

 

 

 西側(祭壇側)外観                          北側から

 

 

 王宮側(南側)からの大聖堂         内陣(入口側) 1万本のパイプオルガンは世界最大。

 

 

 内陣(祭壇側)

 

 翼内陣に嵌めこまれた Bakócz Kápolna (バコーツ礼拝堂)

  1506~1511年に聖母マリアを祀り、礼拝堂は作られた。 しかし、1543年のトルコの攻撃が

 進む中、礼拝堂の破壊を避ける為に、大理石に番号を附って1600片に割り、トルコ支配の130年

 の間、隠しておいた。 トルコ軍が撤退した後に、内陣内に再度、組み合わせ復元させた。

 それは1822年の施工であり、大聖堂の再建と同時進行であった。 

 但し、今の礼拝堂の位置は、オリジナルの位置ではない。

 (夢のような話で真実かどうかの詮議はやめて、国民誰もが、真実と願っていることだろう)

 

 

 祭壇の向かって右側にある宝物館には、数多くのアールパード王朝から伝わる眩いばかりの

 宝物(約350点)が展示されている。

 

 

 丸いドーム(直径53.5m) は展望台になっており、360度のパノラマである。

 

 南東に広がる市街地 (ドームの展望台から)

 

 南に見える Mária Valéria 橋と、渡ればスロバキア

 

 東側表参道

 

  以下は教会ではないが、エステルゴムを紹介する上で、切り離すことの出来ないスポットとして、

 少しでも触れておく必要があると思う。

 

 <Visegrád Fellegvár (ヴィシェグラード・フェッレグヴァール)要塞>

 このあたりは、「ドナウの曲がり角」と呼ばれており、ドナウ川は90度、南に曲がり、ハンガリーの

 国土を縦断して行く。 山頂に立つ要塞からの眺めは、ハンガリーで一番美しいと云われている。

 要塞は、1250~1260年代にベラ4世とビザンツ帝国からの妻マリアが建てた。

 アールパード王朝の衰退後、ナポリのアンジュー王朝から来たカーロイ王の時代(1308-1342年)

 からマーチャーシ王の時代(1458-1490) まで、要塞と王宮(次に出てくる)は拡張、モダン化された。

 

 要塞から「ドナウの曲がり角」を望む

 

 国道11号線より要塞を望む

 

要塞の門よりドナウを望む(向こうはスロバキア)       要塞の頂上

 

 

 < Királyi palota 王宮>

 カーロイ王が1325年頃、住居にしていたものを、宮殿として建て替えた。

 その後、トルコの来襲までは、拡張、造園が続いた(ハンガリーが最も、輝いていた時期)

 トルコの支配時代は使われることなく廃墟化していった。

 ハプスブルグからの自由戦争(1703~1711年)時に、要塞共々、破壊され埋められて

 しまった。 1934年に発見されて以来、発掘が続いている。

 

 王宮外観と向こうの山の上に要塞が見える。     王宮内部(発掘された遺物も多く展示。

 

 

 王宮から見た発掘現場

 

 < Salamon torony シャラモン塔>

  要塞の下に、要塞と同時期の13世紀に建てられた。 ドナウ川航路監視塔である。

 

 

  これで、「エステルゴムの教会」はお終い。