撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

知っている積りだったブダペスト

2019-03-13 03:00:21 | 海外生活

 もうかなり長い間ハンガリーで暮らしてきたけど、ブダペストの事となるとアバウトな知識ばかりで、

チコちゃんに「ボゥーと生きてんじゃねぇ~よ」と叱られるほど、なんとノホホ~ンと暮らしてきた

ことか...... そこでブダペストの生い立ちと現在の街並みを重ね合わせながら、「ドナウの真珠」の源に

迫ると共に、より一層の認識と愛着を深めようと。

 

1.最初にブダペストに住んでいた民族は ...

  ローマ帝国が進出してくる前に、紀元前数世紀よりケルト人がドナウ川流域を広く支配しており、

 紀元前1世紀頃には今のゲッレールトの丘の麓に集落を作り、丘の斜面には葡萄畑が広がっていた

 という。

 ● 推定される現在の位置                        Mar. 03 2019

 ブダの丘とゲッレールトの丘との間には小川がドナウ川に流れ込んでおり、村落は後に“タバーン”

 と呼ばれる街となり、セルビア人やスラブ人がオスマン帝国軍に追われ北上して住みつき、別名

 「キシュペシュト」とも呼ばれ、ウィーンや南方からの玄関口として一時期は繁栄を誇った。

 

2.ブダペストで最初に作られた街「オーブダ」とは ...

  紀元1世紀にローマ帝国はこの地域を征服し始め、ドナウ川沿いにパンノニアという属州を作った。

 パンノニアは東西に下パンノニアと上パンノニアに分けられて、下パンノニアのアクインクム辺りが

 東西南北からの通商の合流点として発展し、ローマ帝国は川の右側(ブダ)と左岸(ペスト側)に

 国境防御の為の駐屯地を作った。 当初は6,000人ほどの軍勢であったが、兵士の家族やら商いをする

 住民で最初の街が出来た。 最盛時は5~6万人にもなったという。

 その場所は、今の「オーブダ」のある位置でアルパード橋の麓である。

                                  Oct. 11 2018

 しかし、4世紀頃になるとローマ帝国の勢いも衰え始め、ローマ人化した住民達は帰還し、5世紀

 にはクインクムは消滅してしまった。 その後にトルコ人、モンゴル系のアヴァール人と更には

   スラブ人がやって来て住みついた。

   <参考>

       アヴァール人;モンゴル系の遊牧民で5~9世紀に中央アジアの北東に住んでいたフン族と呼ばれた民族で、

            カール大帝に滅ぼされた後は滅亡し、スラブ人とマジャール人と同化してしまった。

                            よく耳にする「ハンガリー人の赤ちゃんのお尻には、日本人と同じ蒙古斑がある」という話の事実は、

                                 これが原点なのかも知れない。


 9世紀になると、ロシアの東部、ウラル山南麓に住んでいたウラル系言語を話すマジャール民族が

 2人の首長(クルサーンとアルパード)に率いられてドナウ川の流域を西へと移動して来て、

 ハンガリーの地を征服したのが西暦895年前後であった。

 二人の権力者のうちクルサーンは、オーブダの街に定住し、もう一方のアルパードはドナウ川の

 もう少し下流にある中州のチェペル島に住んだ。

 

 ● 首長クルサーンの居城

 現在のオーブダ区域の南端に、クルサーンの居城があったらしいが、実存したかは定かではない。

 古い資料からは、ちょっと高台にあったことや、後述するローマ円形劇場遺跡が今も残っている

 ことより、現在のウイラク・シャルロース聖母教会 (Ujlak Sarlós Boldogassony templom) 

 のある辺りではないかと個人的に推定している。             

   Apr. 29 2018

    オスマン帝国軍の去った後の 1745~1756年にカトリック教会として建てられた。


 ● ローマ円形劇場遺跡 (Amphitheatrum)

 ローマ帝国時代は、12,000人も収容でき、当然、後に支配したマジャール人もオスマン軍も継続

 して軍の訓練などにも使っていたのであろう。                Aug. 01 2015


 ● 聖ペトロ教会のあった所は、

 現在は 1749年に再建された聖ペテロとパウロ教会 (Szent Péter és Pál templom) となっている。

                                       Mar. 02 2019


 ● 王(王妃)の館があった所は、

 現在は 1781年に建てられた改革派(カルヴァン)教会 (Óbudai Református templom)がある。

    Mar. 02 2019


 ● 公衆浴場 (Thermae Maiores) 跡

 現在は幹線高架道路下にあり、発掘調査が始められたのは 1778年からであった。

 

                        (ローマ風呂博物館広報資料より拝借)

 ● シナゴーグ (Óbudai Zsinagóga)

 ハプスブルク帝国支配時代に、ユダヤ人はブダの街から追放された為に大量のユダヤ人は

 オーブダに移り住んだ。 シナゴーグは 1821年に建てられた。       Mar. 02 2019


 ● 古い街(市庁舎付近)に溢れる現代アート作品

 ヴァルガ・イムレの「雨降りに散歩」... 1986年の作品

  Mar. 02 2019


 このオーブダの街は、1873年に今のブダ、ペシュトとここの3つの街が合併し、ブダペストという

 大きな都の中に飲み込まれ、忘れ去られかけている古い街であるが 2000年前の遺跡も残されており

 悠久の歴史を辿る散策コースとしてお薦めしたい。


3.エステルゴムへの遷都

 クルサーンは 904年に暗殺され、アルパードも 907年に亡くなると、アルパードの子孫が首長を

 継いだ。 アルパードの曾孫のゲーザ (Geza) は拠点をエステルゴムに移した。

 その息子のイシュトヴァンはキリスト教に帰依し、ハンガリー王国を創始したのが西暦1000年の

 大晦日であった。

 ● エステルゴム大聖堂と王宮                     Jan. 05 2008


 ● 英雄広場 (Hősök tere) に立ち並ぶ建国の英雄たち

 中央にはハンガリーに進出して来た当時のマジャール人7部族の長たちの像    

                                     Sep. 27 2009  


 ● 左端に立つのが、ご存じ聖イシュトヴァン(初代国王) 

  Sep. 27 2009


4.ペシュトの街の生い立ち

 ローマ帝国は、ペシュトにも「コントラ・アクインクム」という要塞を造った。

 その位置は「3月15日広場」を中心とした一画であった。

 当時のペシュトは、対岸のゲッレールト丘付近のタバーンと呼ばれていた地区も一緒の街であった。

 ペシュトの城塞の南側には、聖母マリア礼拝堂が建っており、ジグモンド王の時代(1400年代)

 に教会として拡張された。 オスマン帝国の支配時代でペシュト側で唯一残ったキリスト教会。

  ● 2016年改装後の現在の名称、市教区教会

   Mar. 03 2019


  教会正門ファサード(改装前)                                                        Jan.19 2008

 

 しかし、この「コントラ・アクインクム」は 5世紀には荒廃し、9世紀にはマジャール人が定住

 して城塞も作り直し、11世紀には聖イシュトヴァン王の後押しで教区教会として改築した。

 それによりオーブダに追従して繁栄し、この左岸を「ペシュト」、右岸を「キシュペシュト」と

 呼び分けられるようになった。 この繁栄に伴いペシュトにはマジャール人、ドイツ系、スラブ系、

 イスラム系と多民族が住むようになり、特にドイツ系住民が権力を発揮し始めた。

 マーチャーシュ王の時代(15世紀)には、街を石作りの市壁で拡張し、都市化が加速した。

 <15世紀のペシュトの街>

  


 ● フランチェスコ修道院のあった所は、

 フランシスカン教会 (Belvárosi Ferences templom) として 1758年にバロック様式で再建、

 塔の建設は 1863年であった。

  

5.新しいブダの街の生い立ち

 1241~1242年にモンゴル軍がカルパチア山脈を越えて、ハンガリーの東部から侵入して

 ペシュトを破壊し、ドナウ川が凍結する1月にはオーブダ(当時はブダの街はなかった)、

 キシュペシュトを攻撃し走り去った。

 この襲撃によって3つの街は大打撃を受け、アドリア海に逃亡していたベーラ4世は戻って

 くるや反省点を踏まえ、新しい街づくりに取り掛かった。 それが石壁で囲った強固な街と

 城塞作りであり、オーブダにあった城塞を現在あるブダの位置に移した(1255年)

 この時期のブダ城丘は、今のケーブルカーのある付近までの北側のみで王宮と都市部は城壁で

 囲まれて一体になっていたが、15世紀になってジグモンド王~マーチャーシュ王の時代に

 王宮が現在の南側に追加され、都市部と王宮が区別されるようになった。

 これにより王と宮廷は居住地であったヴィシュグラードから頻繁にブダの王宮に滞在するよう

 になった。(しかし、まだ首都がブダペストに移った訳ではなかった)

 ● 追加された南側王宮                       Jan. 27 2008

 

 ● ヴィシュグラードの城塞と王宮跡

 アルパード王朝が途絶えた14世紀にフランス/ナポリ出のアンジュー王朝が築き、

 ハンガリーが最も輝いた 200年間の黄金時代を享受した。        Jan. 12 2008                               

 

 ● 英雄広場に立ち並ぶ英雄14人衆の中で傑出する2人の王

    ベーラ4世 (19代国王)    マーチャーシュ王(34代国王)

    

 

<15世紀頃のブダの街>

 

 ● 聖母マリア聖堂(現在のマーチャーシュ教会)

 教会は13世紀半ばにベーラ4世によって創立され、マーチャーシュ王によって塔の増改築された。

   Nov. 17 2011


 ● 聖ミクローシュ・ドミニコ修道院 ....現在のヒルトンホテルの位置

 城塞の中央部にある教会がペシュトから移って来たドイツ系住民の教会であった。

   May 06 2018

          

 ● マーリア・マグドルーナ教会 ....現在は塔のみが残っている

 オーブダからのハンガリー系住民が多く移り住んできた地域と教会。             May 06 2018

                       

6.オスマン帝国の支配

 1526年8月29日、ハンガリー南部のモハーチで70,000人のオスマン帝国軍と25,000人の

 ハンガリー軍が戦い、ハンガリー軍は大敗し、その報によりブダペストに残る王家やドイツ系

 の裕福な「市民」達はウィーンに逃亡した。 もぬけの殻となった城塞ではハンガリー国王の

 継承問題で、オスマン帝国+トランシルヴァニアの公サボヤイ・ヤーノシュ対ハプスブルグ家

 の間で国王を狙ってのブダ争奪戦が勃発。

 結局、1541年にブダペストはオスマン帝国のスレイマン大帝による支配となり、ハンガリー国

 は3分割され、トランシルヴァニアはオスマン帝国の保護国となり、ハプスブルク家が継承した

 ハンガリー王国は首都をポジョニ(現在のスロヴァキア首都ブラチスラバ)に置いた。

 以後、この状態が約150年間続くことになった。



    これにて「知っている積りだったブダペスト」は終了です。

    これ以降の歴史については続報(2)として又の機会にしたい。



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