今回のNyirbátor/Debrecen (ニールバートル/デベレツェン)でハンガリー東部の旅も
最後になります。 これでハンガリーの古刹(中世の教会)は、ほゞ網羅できたような気がします。
今後は見過ごした所、見れなかった所を単発的に訪ねることになります。
<百五十九番札所; Nyirbátor református (ニールバートル) カルビン派教会>
教会は、単内陣でゴシック様式で1488~1511年に建てられた。 窓は典型的なゴシック
様式で、内部はホールタイプの天井まで高さ20mの広い空間を持っている。
Szeged (セゲド)の司教教会とペアになっており、建築様式・時期・職人が共通であった。
最大の特徴は、教会の傍で寄り添う木製の鐘塔である。 オーク材で梁を組んだ鐘塔としては
高さ30mは国内最大級で1640年頃に建てられた。
塔の中に据えられている鐘は、鍛冶師 Wield György の作である。 上の四隅に子供の塔を載せ、
バルコニー回廊、ジンダイ方式(木を重ねた)屋根のスカート姿は教会を守る砦と云われている。
教会西入口 鐘塔(1640年建立) 塔内のオーク材の梁
内陣東側 内陣西入口側 内陣真ん中祭壇
<百六十番札所; Ófehértó (オーフェヘールトー) ローマ・カトリック教会>
教会は、14世紀半ばにゴシック様式の単内陣で建てられ、塔は1750年に追加された。
内部の壁には、1400年代のフレスコ画が所狭しと描かれている。
教会は、以前は改革派に使われており、これらの絵は当時、漆喰を塗って隠しておき、
18世紀の終わりにカトリックに戻った時に、復元修復したと云われている。
アーチ壁の縁には、聖Margit の絵
内陣の北壁には大きなフレスコ画が描かれている(大勢の聖職者を描写)
アーチ壁の右側には、聖Erzébet が癩病患者に食物を与えている絵。
<百六十一番札所; Nyirbéltek (ニールベールテク) ローマ・カトリック教会>
教会は、1222年にロマネスク様式で建てられたが、タタール族の襲撃で破壊され、15世紀に
再建された。 オスマン・トルコの占領時代には使われることなく、彼らの撤退後の18世紀に改修
した。 しかし火災によって焼失してしまい、19世紀の初めに再度、再建したものが今日のもの。
聖母マリアを祀り、15世紀当時の壁画をアーチ壁に見ることが出来る。
1925年には、西側に突き出ている小さな塔を追加し、1950年代には、本物の歴史的価値のある
壁画(1420年頃のジグモンド王の時代のもの)を祭壇うしろの壁に掲げた。 (出所不明)
西側から 東側から
南門は塞いだが形は保存 内陣(祭壇側)
祭壇うしろ(東側)の壁フレスコ画(1420年代のもの)
内陣のアーチ壁のフレスコ画(15世紀) 内陣(入口側)
デブレツェンは、人口208,000人(2011年)で国内第2の大都市であり、ハンガリーの
大平原(プスタ)を利用した農業・畜産・毛皮・塩等で中世の古くから繁栄してきた町で、
3つの総合大学とアカデミーがある学園都市でもある。
しかし、毎度のことであるが、古い教会というのは大都市には少ない。 でも1箇所だけでも
立ち寄っていきたいものだ。
<百六十二番札所; Debrecen református (デブレツェン) カルビン派教会>
教会は、1805~1820年に建てられたネオ・クラシック様式、左右に2つの塔を持った
ハンガリー国内カルビン派の総本山であるばかりでなく、デブレツェンのシンボルでもある。
一時期、カトリック教が締め出され、カルビン派の信者のみの居住が許された町であった。
実際には、13~14世紀初頭には古い教会はあったらしいが、1802年に焼失してしまった。
1849年4月14日、コシュート・ラヨシュがハプスブルグ家との独立戦争をここで宣言したり、
その後も数々のハンガリー史の表舞台になった場所でもある。
祭壇 内陣入口側
これで、「Nyirbátor/Debrecen (ニールバートル/デブレツェン)の教会」は、お終いです。
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