私の家は、私が通っていた小学校からさほど離れた場所ではなかった。
通学路はあれこれくねっていたが、直線距離にしたら、家と小学校の距離はけっこう近かった。
なので、たとえば、母校である小学校が運動会でもやっていれば、グランドに流れていた運動会のBGMやアナウンスが、私の家まで聞こえてきた。
時にはかすかに、運動場にいる人たちの歓声なども聞こえることもあった。
私の卒業した小学校では、毎年運動会で流れるBGMはたいがい同じだった。
だから、運動会をやってる日などは、そのBGMで、すぐに分かった。
中学の頃。日曜日などで家にいる時、とくにやることがない日もあった。
そんな時に、私の卒業した小学校から運動会の音が聞こえると、妙に寂しさを感じることがあった。
特に中学1年の頃は。
中学一年といえば、その前年までは私は小学生だった。なので、小学校の運動会は、ほんの「去年のこと」でしかない。
多少なりとも、、小学校の名残みたいなものが自分の中に残っていたかもしれない。
小学校を卒業する時、私はとくに寂しさみたいなものを感じた覚えはなかった。
クラスの大半の子は、私と同じ中学に進学したし、私の家自体が小学校の近くだったから。しかも、その小学校は、私の家の最寄りの駅の商店街の中ほどに正門があったものだから、普段買い物などで商店街を歩けば、自然に小学校の正門の前を通ることになった。
で、その正門からは、校舎や運動場などが見えた。たとえ学校の中に入らなくても、その小学校は、絶えず身近にあった。
そんなこともあり、卒業する時、あまり「別れ」という実感はなかったのだ。
だが・・・中学生になって、日曜日に家にいて、やることがない時に、小学校の方から運動会の音が聞こえた時に、それにもう参加はできない自分の状況を思うと、今更のように時が流れたことを実感し、なおかつ、卒業してもうその学校に行けないことの寂しさを感じたものだった。
たった一年違うだけで、こんなにも状況が違っていることに対して、時の流れを感じたのだ。
この時、卒業した当時はあまりリアルにはピンとこなかった「卒業の寂しさ」を感じたのだった。まるで、「時間差」のような寂しさであった。
私は特に運動会が好きだったわけではない。
また、その小学校に格別の愛着があった自覚は持ってなかった。
だから、格別その運動会に参加したいという思いはなかったし、小学校に戻りたいと思ったわけでもなかった。小学校時代には、そりゃ楽しいこともあったけど、子供心に辛いこともあったし。
ただ、以前は当たり前のように入っていけたその場所に、今は入っていけない・・という状況に、多少なりとも「仲間はずれ」になった気がしたのだった。
この時、私は「卒業する」ということがどういうことなのか、実感として感じ得たのだろう。
その後、やがて中学も卒業する時がきた。その時は、オーバーな言い方をすれば、人生で初めて、別れの寂しさを感じた。
中学から高校に進学してしまうと、クラスメートはみなバラバラ。当然、片思いだった子を見かけることもなくなる。
通う学校も、電車を乗り継いでやっと着く、場所。
小学校や中学のように、自宅から歩いて通える場所ではない。遠方。自分の行動範囲は大きく変わることになる。
そんな色んな要素から、中学卒業の時には、本当に卒業という名の「別れ」を実感したのだ。
だが・・もしかしたら・・・その「別れ」には多少なりとも免疫はあったのかもしれない。
今思えば、その「免疫」とは、中学一年の時に、自分が卒業した小学校の運動場から運動会の音が聞こえた時に感じた寂しさが、そうであったようにも思えるのだ。
そう、何気に感じた、「時間差で私を包んだ、寂しさ」こそが。
仮に、かつて自分がいた場所が目の前に見えても、入っていけない・・・自分の居場所は、もうそこにはない・・・という事実と共に。