バンドやユニットに、自作曲を持ち込む時の話。
自作曲を作ってる人なら分かると思うのだが、陽の目をみない自作曲ってけっこうあるのではないだろうか。
曲を作るのが好きな人は、特に。
これがソロなら、曲がボツになるかどうかは、自分で決められる。自分の趣味や価値基準で決められる。
だからこそ、ユニットなどではボツになりそうな曲でも、ソロならやることもできる。
だが、バンドやユニットだと、そうはいかない。
持っていっても、メンバーの受けが悪いと、自作曲がボツになることってのは、よくある。
だが、その場合、メンバーの趣味もかなり反映される。
その場合、自作曲を持ち込む人は、自作曲に対するある程度の「作者としてのクールな目」も持っていないと、流されたり、逆に意固地になってしまいかねない。
その辺のかねあいは微妙でもあるし、絶妙でもないといけないのだろう。
時代屋には、私はバンド時代の自作曲はほとんど持ち込んでいない。
今のところ例外は「マスコミランニング it`s OK!?」「街道の旅人たち」。この2曲は、バンド時代にもやっていた曲。
それ以外は、どの曲も、時代屋を組んで初めて人前で演奏した曲ってことになる。
でも、この2曲にしても、今は時代屋でやるのにはさほど積極的ではなくなっている。
どうしてもバンド時代の音と比較してしまうからね(笑)。
私のバンド時代の仲間からは、どうしてバンド時代の曲を時代屋では もっとやらないんだ?と、たまに言われる。
相方は、バンド時代の曲を時代屋でもそのままやっているけど。
そう・・バンド時代の私の自作曲は、時代屋よりもメンバーの数が多いバンド環境の中で、メンバーから「了承された」曲だった。
だから、それなりに吟味された曲だった・・ってことになるのかもしれない(どうしょうもない曲を持ち込むと、メンバーから却下をくらってたからね~)。
だから、そういう曲であるなら、時代屋でもやればいいのに・・・という進言の趣旨は、よくわかる。
だが・・・作者の私としては・・・バンド時代の曲は、バンド時代にさんざん人前で披露し続けた曲。
ならば、バンド時代に人前で披露されていない曲を時代屋ではやりたい。披露されてない曲を、披露したい。そう考えている。
中には、バンドに間に合わなかった曲もあるし(曲ができたのはバンド解散後だったり)、バンド時代に持ち込めなかった曲もあるし、比較的最近作った曲などもある。
ならば、バンド時代の曲に頼らなくても・・というのが正直なところだ。
いつか今の時代屋に持ち込んで人前で披露してみたい曲や、披露したいアレンジの曲は、実はいくつかある。
それは自分としては「頭の中で寝かしてる」状態だと思っている。もっとも、結局このまま「寝かしっぱなし」になる可能性もあるけど(笑)。
自分としては、曲ができたからといって、なんでもかんでも時代屋に持ち込んでるわけではない。
一応、自分でも選んでいるし、時代屋に合うかどうか・・というのも考えてはいる。編成もアコギ2台だけだし、それでできるかどうか・・というのはポイント。
以前PCでインスト組曲として作った曲は、アコギ2本では無理。しかたなく曲をいくつかに分けて、歌詞をつけて、人前で歌えるようにした曲もある。
例えば「空の少年(少年編)」と「ポケットに入れた空(青年編)」がそうだ。
この2曲は、元々はある1曲の組曲の中の1部分同士で、本来は「合わせて1曲」だった。
そのへんを考えてやっとユニットに持ち込んだ曲で、しかもこれまで何度も時代屋でライブで披露してきた曲で、・・実は、最初時代屋に持ち込んだ時に「却下」をくらった曲がある。
その後、フルメンバーの時の時代屋ライブでは何度も披露した曲。
その曲は、相方から、当初「これはやめよう」とかなり強行に主張された。
私は普段なら「それほどこの曲がダメなら・・やめようか」と素直になることは、けっこうある。
でも、この時ばかりは、私のほうも強行に食い下がった。この曲はボツにされたくない・・・という思いが強かったし、実をいうと、その曲が「却下」を食らうとはまったく予想していなかった。
この時は、相方の「却下」を、私がガンとして受け付けなかった形になった。
結局、私が押し返した形になった(笑)。
その曲は「風の礼文島」という曲である。
そう、「風の礼文島」という曲は、あわやボツになり、陽の目を見ないまま埋もれていく・・そんな可能性のあった曲だった。
この時、自分の意思が軟弱だったら、「風の礼文島」は通らなかったはず。
曲の善し悪しはともかく(笑)、自分としてはどうしてもやりたかった曲だった。
礼文島という島自体が好きだから・・というのもあった。
このように、ユニットやバンドでは、自作曲を持ち込んでも、メンバーに「この曲、やめようよ」と言われることはある。
その点は、ソロとユニット&バンドの違いだろう。
身内で、自分の自作曲を第3者の目で見て判断する存在がいる。それは、ユニットやバンドの良さだと私は思っている。
自作曲を持ち込んで、ボツになるってのは、作者としてはけっこう寂しい(笑)。
でも、「じゃあ、こっちの曲ならどうだ!」とか「むむむ・・、次に持ってくる曲こそ!」と思えるし、改良もできるし、それはけっこう「張り合い」になる。曲作りのモチベーションアップに繋げられると思っている。
だからこそ、楽しい。
まあソロでも、アルバムなどを作る時に、プロデューサーみたいな人がいれば、いいんだけどね。
まあ、一番いいのは、自らがプロデューサー的な視点を持てばいいんだろうけど。
まあ、その場合にしても、やはり「第3者」の目はあったほうがいいとは思うけどね。
私の経験では、「自分では気に入ってるけど、リスナー側としてはイマイチだった」とか「自分としてはたいしたことがない曲にしか思えなかったが、リスナー側の反応はよかった」というケースはある。
作者側とリスナー側の感じ方の違い・・・ってやつだ。
作った曲は誰かに聴いてもらいたいし、ライブは(アルバムもそうだろう)お客さんがいて初めて成り立つということを考えれば、リスナー側の感じ方は大事だ。
自己満足だけで終わってしまいたくなければね。
かといって、作り手である作者側の感覚をおろそかにしたら、ろくなものは生まれない。
そのへんの兼ね合いは・・・大事。
そんなことを考えれば、自作曲に対して、第3者の目で(耳で)、こうした忌憚の無い意見を言ってくれる存在がいる・・ということは、大事なことだと思う。
良い時は素直に褒めてくれ、イマイチの時は忌憚の無い意見を。
で、それを作者としてどう受け止めるかは、心の中にポリシーや柔軟性がないとダメなんだろう。
意固地にもならず、かといって流されてばかりにもならず。
ただ、相手に遠慮なくダメだしをする場合は、そこに悪意があったら、相手は意固地になるか、聞く耳をもたないか、スルーするだけになる可能性はある。
悪意からくるダメだしの場合、言われたほうは相手の悪意は察するものだしね(笑)。
悪意が無く、素直な感じ方を素直に話したのなら、それが仮にイマイチの評価であったとしても、受け取れる。
なんでも「ダメだし」したがる人ってのはいるもんだし、相手からのダメだしを真摯に受け止めて次に活かせるかどうかは大切なポイントではあるのも確かだけど、そこに悪意があったら、それは伝わりにくい。
もしそれが旧知の人からのものであるなら、普段の間柄がどうであるかというのも影響してくる。
普段の交流がない人、あるいは初対面の人は、忌憚の無い意見は言いにくい(少なくても、私は)。
その意見が、マイナス的な意見である場合、いきなり言ったら、相手は気分を害す場合もあるし。
普段の関係があまり良くない場合は、なおさら。
とりあえず言えるのは・・口癖のようにダメ出しばかりしてる人は・・その人がよほど凄ければ別だけど、そうじゃなければ・・・まあ、煙たがられるよねえ・・ということ(笑)。
私の場合・・・そこに「悪意」を感じなければ、相手の忌憚の無い意見は真摯に受け止めたいな・・とは思います。
普段の交流があったり、関係が悪くなければ、特に。
それを受け止めて活かせば、もっと良くなる可能性はあるしね。
って、まあ、当たり前か~。
ただ、ダメ出しばかりされると、凹むっちゃ凹むんだけど(笑)。
まあ、色々書いてきたが、過去にバンドでやってた曲をあまりにないがしろにしておくのも、不自然かな・・と、最近少し思うようになった。
もしかしたら、バンド時代の曲も多少掘り起こそうかな・・・という気になりつつある昨今ではあるのです。
自作曲を作ってる人なら分かると思うのだが、陽の目をみない自作曲ってけっこうあるのではないだろうか。
曲を作るのが好きな人は、特に。
これがソロなら、曲がボツになるかどうかは、自分で決められる。自分の趣味や価値基準で決められる。
だからこそ、ユニットなどではボツになりそうな曲でも、ソロならやることもできる。
だが、バンドやユニットだと、そうはいかない。
持っていっても、メンバーの受けが悪いと、自作曲がボツになることってのは、よくある。
だが、その場合、メンバーの趣味もかなり反映される。
その場合、自作曲を持ち込む人は、自作曲に対するある程度の「作者としてのクールな目」も持っていないと、流されたり、逆に意固地になってしまいかねない。
その辺のかねあいは微妙でもあるし、絶妙でもないといけないのだろう。
時代屋には、私はバンド時代の自作曲はほとんど持ち込んでいない。
今のところ例外は「マスコミランニング it`s OK!?」「街道の旅人たち」。この2曲は、バンド時代にもやっていた曲。
それ以外は、どの曲も、時代屋を組んで初めて人前で演奏した曲ってことになる。
でも、この2曲にしても、今は時代屋でやるのにはさほど積極的ではなくなっている。
どうしてもバンド時代の音と比較してしまうからね(笑)。
私のバンド時代の仲間からは、どうしてバンド時代の曲を時代屋では もっとやらないんだ?と、たまに言われる。
相方は、バンド時代の曲を時代屋でもそのままやっているけど。
そう・・バンド時代の私の自作曲は、時代屋よりもメンバーの数が多いバンド環境の中で、メンバーから「了承された」曲だった。
だから、それなりに吟味された曲だった・・ってことになるのかもしれない(どうしょうもない曲を持ち込むと、メンバーから却下をくらってたからね~)。
だから、そういう曲であるなら、時代屋でもやればいいのに・・・という進言の趣旨は、よくわかる。
だが・・・作者の私としては・・・バンド時代の曲は、バンド時代にさんざん人前で披露し続けた曲。
ならば、バンド時代に人前で披露されていない曲を時代屋ではやりたい。披露されてない曲を、披露したい。そう考えている。
中には、バンドに間に合わなかった曲もあるし(曲ができたのはバンド解散後だったり)、バンド時代に持ち込めなかった曲もあるし、比較的最近作った曲などもある。
ならば、バンド時代の曲に頼らなくても・・というのが正直なところだ。
いつか今の時代屋に持ち込んで人前で披露してみたい曲や、披露したいアレンジの曲は、実はいくつかある。
それは自分としては「頭の中で寝かしてる」状態だと思っている。もっとも、結局このまま「寝かしっぱなし」になる可能性もあるけど(笑)。
自分としては、曲ができたからといって、なんでもかんでも時代屋に持ち込んでるわけではない。
一応、自分でも選んでいるし、時代屋に合うかどうか・・というのも考えてはいる。編成もアコギ2台だけだし、それでできるかどうか・・というのはポイント。
以前PCでインスト組曲として作った曲は、アコギ2本では無理。しかたなく曲をいくつかに分けて、歌詞をつけて、人前で歌えるようにした曲もある。
例えば「空の少年(少年編)」と「ポケットに入れた空(青年編)」がそうだ。
この2曲は、元々はある1曲の組曲の中の1部分同士で、本来は「合わせて1曲」だった。
そのへんを考えてやっとユニットに持ち込んだ曲で、しかもこれまで何度も時代屋でライブで披露してきた曲で、・・実は、最初時代屋に持ち込んだ時に「却下」をくらった曲がある。
その後、フルメンバーの時の時代屋ライブでは何度も披露した曲。
その曲は、相方から、当初「これはやめよう」とかなり強行に主張された。
私は普段なら「それほどこの曲がダメなら・・やめようか」と素直になることは、けっこうある。
でも、この時ばかりは、私のほうも強行に食い下がった。この曲はボツにされたくない・・・という思いが強かったし、実をいうと、その曲が「却下」を食らうとはまったく予想していなかった。
この時は、相方の「却下」を、私がガンとして受け付けなかった形になった。
結局、私が押し返した形になった(笑)。
その曲は「風の礼文島」という曲である。
そう、「風の礼文島」という曲は、あわやボツになり、陽の目を見ないまま埋もれていく・・そんな可能性のあった曲だった。
この時、自分の意思が軟弱だったら、「風の礼文島」は通らなかったはず。
曲の善し悪しはともかく(笑)、自分としてはどうしてもやりたかった曲だった。
礼文島という島自体が好きだから・・というのもあった。
このように、ユニットやバンドでは、自作曲を持ち込んでも、メンバーに「この曲、やめようよ」と言われることはある。
その点は、ソロとユニット&バンドの違いだろう。
身内で、自分の自作曲を第3者の目で見て判断する存在がいる。それは、ユニットやバンドの良さだと私は思っている。
自作曲を持ち込んで、ボツになるってのは、作者としてはけっこう寂しい(笑)。
でも、「じゃあ、こっちの曲ならどうだ!」とか「むむむ・・、次に持ってくる曲こそ!」と思えるし、改良もできるし、それはけっこう「張り合い」になる。曲作りのモチベーションアップに繋げられると思っている。
だからこそ、楽しい。
まあソロでも、アルバムなどを作る時に、プロデューサーみたいな人がいれば、いいんだけどね。
まあ、一番いいのは、自らがプロデューサー的な視点を持てばいいんだろうけど。
まあ、その場合にしても、やはり「第3者」の目はあったほうがいいとは思うけどね。
私の経験では、「自分では気に入ってるけど、リスナー側としてはイマイチだった」とか「自分としてはたいしたことがない曲にしか思えなかったが、リスナー側の反応はよかった」というケースはある。
作者側とリスナー側の感じ方の違い・・・ってやつだ。
作った曲は誰かに聴いてもらいたいし、ライブは(アルバムもそうだろう)お客さんがいて初めて成り立つということを考えれば、リスナー側の感じ方は大事だ。
自己満足だけで終わってしまいたくなければね。
かといって、作り手である作者側の感覚をおろそかにしたら、ろくなものは生まれない。
そのへんの兼ね合いは・・・大事。
そんなことを考えれば、自作曲に対して、第3者の目で(耳で)、こうした忌憚の無い意見を言ってくれる存在がいる・・ということは、大事なことだと思う。
良い時は素直に褒めてくれ、イマイチの時は忌憚の無い意見を。
で、それを作者としてどう受け止めるかは、心の中にポリシーや柔軟性がないとダメなんだろう。
意固地にもならず、かといって流されてばかりにもならず。
ただ、相手に遠慮なくダメだしをする場合は、そこに悪意があったら、相手は意固地になるか、聞く耳をもたないか、スルーするだけになる可能性はある。
悪意からくるダメだしの場合、言われたほうは相手の悪意は察するものだしね(笑)。
悪意が無く、素直な感じ方を素直に話したのなら、それが仮にイマイチの評価であったとしても、受け取れる。
なんでも「ダメだし」したがる人ってのはいるもんだし、相手からのダメだしを真摯に受け止めて次に活かせるかどうかは大切なポイントではあるのも確かだけど、そこに悪意があったら、それは伝わりにくい。
もしそれが旧知の人からのものであるなら、普段の間柄がどうであるかというのも影響してくる。
普段の交流がない人、あるいは初対面の人は、忌憚の無い意見は言いにくい(少なくても、私は)。
その意見が、マイナス的な意見である場合、いきなり言ったら、相手は気分を害す場合もあるし。
普段の関係があまり良くない場合は、なおさら。
とりあえず言えるのは・・口癖のようにダメ出しばかりしてる人は・・その人がよほど凄ければ別だけど、そうじゃなければ・・・まあ、煙たがられるよねえ・・ということ(笑)。
私の場合・・・そこに「悪意」を感じなければ、相手の忌憚の無い意見は真摯に受け止めたいな・・とは思います。
普段の交流があったり、関係が悪くなければ、特に。
それを受け止めて活かせば、もっと良くなる可能性はあるしね。
って、まあ、当たり前か~。
ただ、ダメ出しばかりされると、凹むっちゃ凹むんだけど(笑)。
まあ、色々書いてきたが、過去にバンドでやってた曲をあまりにないがしろにしておくのも、不自然かな・・と、最近少し思うようになった。
もしかしたら、バンド時代の曲も多少掘り起こそうかな・・・という気になりつつある昨今ではあるのです。