災害による被害があったばかりの頃は意識しても、災害から時間がたってしまうと、人間は利便性や合理性や利益や予算などの面を優先しがちだ。
やっかいなのは、利便性や快適さに慣れてしまうと、いつしかその環境を「当たり前」のように感じてしまうこと。
すると、その「当たり前」の環境が何かのきっかけやトラブルで崩れると、そこに不満をもつようになってしまうこと。
へたしたら、更にそれ以上の利便性や快適さを求めるようになってしまうこと。
その「当たり前」の環境がまだ「当たり前」ではなかった頃のことを忘れてしまうこと。
それが「当たり前」じゃなかった頃は、それに即した意識を持ち、それに即した生活をおくっていたはずなのに。
「一度覚えた味(この場合、環境)」は、後戻りするのは難しいのかもしれない。
意識の改革がないままだと難しいのだろう。
たとえば・・
私が子供の頃は、家にクーラーなどなかった。冬のストーブはあったものの。なので、暑い夏など、しんどい暑さの中でも寝れていた。
24時間営業のコンビニなどもなかった。だから何かを買うなら、店が開いている一定の時間までに買っておくしかなかった。
テレビなどは、一家に一台しかなかった。チャンネル権が親にあったため、なんでも自分の好きな番組を見れる状況ではなかった。
幼少の頃など、家に風呂もなかった。風呂は銭湯に行くしかなかった。
携帯もなかったから、外出中の誰かと連絡をちくいち取り合うなどできなかった。
ネットショッピングなんてなかったから、何かを買う場合は、店に出かけたりしなくてはいけなかった。
今考えればそれらの状況は、今よりも不便だ。でも、それなりに、それに即した生活をおくっていたし、それが当たり前でもあった。
利便性があがればあがるほど、人は忍耐力や順応性が減退し、よくばりになったり、わがままになっていくのかもしれない。少なくてもそういう側面はあると思う。
生きていれば、その場その場で事態は変わっていくことはよくある。
で、変化したその局面で、時には刹那的に、それにすぐに応えられる環境を求めるようになる。
なまじ、そこにビジネスチャンスを見出した仕事をする業者が、それで利益をあげるからなおさら。また、それを見て、同じような仕事をする業者が続くから、さらに。
利便性があがると、世の中そのものが、そういう利便性があるという前提の上でまわっていったりする。
例えば、携帯が普及するにつれ、公衆電話が減ったり。
公衆電話が減ったぶんは、「みなさん携帯をもってるのだから、連絡は携帯でやってくれ」・・そんな状況だ。つまりこれなど、携帯があることを前提にして、世の中がまわっている証拠だ。
まあ、携帯が普及したことで、公衆電話の利用者が減ったという事情もあるのだろう。
利便性の行きつく先は、どんなものなのだろう。
利便性をどこまでも追い続けていくと、そこには一体どんな未来があり、どんな状況になるのだろう。
利便性は、いつしかそれは「あって当たり前」のものになっていき、更なる利便性を求めるようになるのだろう。
でも、それがエスカレートしていくと?
こんなことを考えながらも、普段の生活で利便性の恩恵を受けている自分もいるわけで。
いつの間にか、今の利便性に慣れてしまい、今の利便性の前提の上で行動したり、言ったりしていることはある。
とりあえず、利便性をどんどん追求していく状況は、諸刃の剣ではあるとは思っている。
不便だから良い・・そんな状況もあるはず。
便利だから良いものと、不便だから良い・・そのどちらも併せ持っていければ。
不便だった頃の状況というものは、ちゃんとそれを伝えていったり、頭のどこかにちゃんと入れておかないといけないのではないだろうか。
そんな気がしてならない。
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