小学校や中学校の頃、席が近い友人たちと一緒に、オリジナルの漫画雑誌を作っていた。
少年マガジンやサンデーやキング、ジャンプやチャンピオンなどに影響を受けてだった。
できれば上記の漫画週刊誌は全部読みたかった。
でも、少なくても小学生にはそんなお金はなかった。
でも読みたい。
ならば・・自分らで雑誌を作ってしまおう・・・という発想になったんだと思う。
私の場合は、それ以外に、自分の描いた漫画を級友に読んでもらいたいという欲求もあったのだと思う。
まあ、雑誌と言っても、単にまっさらな大学ノートを1冊用意し、それを漫画執筆する友人たちに貸し合い、誰かが1作そのノートに漫画を描き終わったら、次の人にそのノートを貸し、それを順繰りに繰りかえし、やがて1冊の漫画雑誌みたいな大学ノートになる・・そんな感じだった。
小学校の頃に皆で作ったオリジナル漫画雑誌のタイトルは確か「少年ヨンデー」だったと思う。
もちろん、「少年サンデー」と「読んで」をもじった雑誌名だったと思う。
最初は皆で盛り上がって、皆張り切るんだけど、いかんせん、雑誌が完成するにはけっこうな時間がかかる。
なので、最初は皆モチベーションが高いのだが、段々順番が回ってこなかったりすると、そのうちテンションが落ちてきてしまう。
結局小学校の頃に作った「少年ヨンデー」は、ほどなくして皆のテンションが落ちていき、最終的には私が1人で大半を描くことになってしまったように思う。
まあ、私としては、大学ノートは誰かが用意してくれたものだったし、ただで白紙の大学ノートをもらったような気分になり、他の子たちが脱落していくことをいいことに、1人で描き進めた・・のだと思う。
自分の描いた漫画を皆に読んでもらいたくて。
ただ・・皆で1冊の大学ノートを回して、皆の作品を集めて1冊の漫画雑誌みたいなものを作るという理想は、途中で挫折してしまった。
その代わり、級友が個別で未使用の大学ノートを私に渡し、それぞれの大学ノートに、その子あてだけのオリジナル漫画を私が描く展開になっていった。
私はともかく漫画が描きたかったから、それでもよかった。
漫画を描けるノートがただで手に入り、更に読者が少なくても1人はいる・・という状況が楽しかったのだ。
H君は私に、「巨人の星」のような野球漫画を描いてくれ・・とリクエストしてきた。
S君は私に「サインはV」みたいなバレーボール漫画を描いてくれとリクエストしてきた。
その他にもいたかもしれないが、さすがにそこまでは私も手を広げられなかった。
というのは、自分用の漫画も描きたかったから(いったい、いつ私は勉強していたんだ?)。
とりあえず、H君のために描き始めた野球漫画は延々と続き、大学ノート9冊まで描いた。
でも、それでもまだその野球漫画は終わらなかった。まだまだ私は描き続ける気マンマンだったのだが、8冊目を描き終わって、新たに9冊目のノートを受け取った時は、すでに小学校を卒業してしまっていた・・のだと思う。
その8冊目を実際にH君に渡したのは、すでに中学に入って間もないころになっていたし。
ただその後・・H君と私は同じ中学に進学はしたものの、クラスが遠く離れてしまい、学校でH君と会う機会が激減。
そのため、9冊めの野球漫画の完成版をH君には渡しそびれてしまい、H君から「続き用」の新たな大学ノートをもらうこともなくなり、その野球漫画は9冊目で尻切れトンボで終わってしまった。
ちなみにH君に渡しそびれた9冊目は、未だに我が家のどこかに残ってると思う。
絵柄や物語やキャラ設定などは、「巨人の星」からの影響絶大。
一方、S君にリクエストされたバレーボール漫画は、確か2冊までは描きあげ、2冊ともS君に渡したため、私の元には残っていない。
絵柄や物語、設定などは「サインはV」からの影響絶大だったと思う。
一方、自分用に描いていたヒーロー漫画は、「サイボーグ009」と「レインボー戦隊ロビン」を足して2で割ったような感じだった。絵柄が特に。
ちなみに、その同じヒーローによる「特別編」みたいな感じで、漫画ではなく絵物語みたいな作品も書いたように思う。
なぜ絵物語にしたかというと、普段そのヒーローが戦う相手は宇宙人だったのだが、妖怪(というより、ピンポイント的に描くと、へび女)と戦う話も書いてみたかったから。
なので、いつもの漫画スタイルではなく、基本は小説みたいに文章で話が続いていき、いつもより写実的な「挿絵」をふんだんに挿入したスタイルで「妖怪編」を絵物語で描いたのだった。
別の惑星からやってきたサイボーグ少年が、へび女と戦う・・・なんて、ほとんど009と鬼太郎と楳図先生の「へびおばさん」を足して3で割ったような、ハチャメチャな設定だった(笑)。ほんと、好きな漫画の「いいとこどり」。
まあ、それはともかく(笑)。
その後中学にあがると、新たな級友から個人リクエストで大学ノートを渡され、その級友あてのオリジナル漫画を描いた。それは熱血学園漫画系で、絵柄的には石井いさみ先生の影響がモロに出ていたと思う。
あと、別のクラスの友M君が大学ノートを私に持ってきて、M君が考えた原案に沿って私がオリジナル漫画を描いたりもした。
それはウルトラマンみたいな巨大ヒーローもので、怪獣と戦う漫画。
ヒーローは4次元の世界からやってきたヒーローという設定。
あと、M君が新たに私に渡してくれた大学ノートには、私が描きたい漫画を描いた。
それはSF漫画と野球漫画を合体させる・・という無謀とも思える漫画。
それに関しては別の機会にこのブログで書くかもしれない。
ともかく、漫画を描くための「白紙のノート」を自分で買うお金は節約したい、そんな金があったら貯めて漫画の単行本を買いたかった。でも漫画は描きたい。愛読者も誰か欲しい。・・そんな思いがあったからの方法であった。
白紙のノートを友人に買ってもらい、その代わりそのノートに、その友人がリクエストしてきたジャンルのオリジナル漫画を描いて渡す・・というスタイル。
中学にあがると、こうした個別のリクエストで漫画を描いていたが、小学校の頃に夢見た、級友が皆で作品を持ちよって1冊の雑誌を作りたい・・という欲求は捨てきれずにいた。
で、中学3年の頃、それはやっと実現。
同じクラスに、漫画を描くことが得意な奴が何人もいたからだった。
1冊の未使用の大学ノートを誰かが用意し(ここでも私はノート代を払ってなかった)、それをメンバーに貸し合い、それぞれ作品を描き、描き終わったら次のメンバーにノートを渡し。
なんと、それは3冊まで完成した。
なおも続けたかった私は4冊目の新刊(?)に取り掛かった。
だが、4作目になると、メンバーが脱落し始めた。飽きる奴や、ねたぎれの奴もいたから。
最終的には、漫画が得意という意味ではライバルでもあったK君と私の2人で、その雑誌の4冊目に取り掛かった。
だが、それまでに比べると人数が減ったために、進行が遅れ、結局4冊目の途中で止まってしまった。
まあ、中学3年だったので、受験の問題もあったし。
完成した3冊は、当初初期メンバーのN君が保管していた。
N君の家に遊びにいけば、その完成品は見ることができた。
毎日見たくなるような代物でもなかったし(笑)、特にそれで問題はなかった。
だが・・・そのN君はやがて引っ越しを繰り返し、そうこうしてるうちにいつしか連絡が取れなくなった。
その後、皆で作った雑誌はどうなったのか。
だいいち、まだあるのか。
それすらわからない。
もしどこかに残っていたら、それに対面することができたら、ちょっとしたタイムカプセルみたいなものかもしれない。
あなたは学生時代に、クラスの級友たちと一緒に雑誌みたいなものを作ったりしなかっただろうか。
もしそれがあって、今も残っていたとしたら・・それはきっと宝物だと思うので、大事にしてほしい。
そんなボクですが、自分でマンガを描こうという発想はなかったです。
マンガの似顔絵みたいなモノ(「おそ松くん」とか「オバケのQ太郎」)をノートの端に
描いたことはありますが、まぁ落書きみたいなモノでした。
だんぞうさんたちは、学生時代の石森先生のようなマンガの同人誌を
やっていたなんてスゴイですね。(石森先生の「マンガ家入門」も読みました)
「巨人の星」や「サイボーグ009」のパロディみたいなモノを
描いていたそうですが、ストーリー漫画のキャラを描くのは相当
デッサン力や、作品の構成力が必要なのでたいしたモノだと思います。
中学生の頃、友人の影響で、青林堂のガロや、虫プロ商事のCOMを読んで
ストーリー漫画の勉強を、少しやったことがあります。
マンガを描くには、キャラのどんな表情でも、どんなポーズでも描けて
主人公の背景もパースを取って的確に描き、心理描写の効果線も
キレイに引けないといけない。
マンガ全体のコマ割り、ネームもセンスが要求されます。
何よりも、こういった事柄すべてが、頭で考えるのではなく
囲碁や将棋のように、瞬時にひらめかなければならない。
マンガとは、マンガの才能に恵まれた人だけにできる、表現手段でしょう。
石森先生は、マンガを総合表現の芸術に昇華させた天才だと思います。
だんぞうさんは、マンガの同人誌から、ギターでの音楽活動に舵を切られたようですが、
別の世界(SFのパラレルワールド)では、音楽家の才能が、マンガ家として
開花していたかもしれません。
メンツが揃う・欠けて行く話は、バンドやっていた友達の話のようです。マンガはひとりでも描けるでしょうが、やはり同志がいた方が張り合いがあるのではないでしょうか。
4コマ漫画的な物でも描けたら良いな…と思います。
私は小学生時代から中学2年ぐらいまでは、漫画家志望の少年だったんです。
当時は将来は漫画家になることしか考えてませんでした。
クラスにひとりぐらい、漫画を描くのが得意な生徒って、いませんでしたか?
私はそんな生徒だったんです。
授業中は落書きやペラペラ漫画もよく描きましたが、家に帰ると白紙のノートにコマ割りをして、オリジナルのストーリー漫画を描いてました。
勉強そっちのけだったので、親や先生にはよく怒られていました。
小学生の頃のコマ割りは、いきあたりばったりでコマ割りをして、物語を勧めていました。
中学になると、あらかじめ数ページ分のコマ割りをして、フキダシの欄も設け、各コマにどんな絵を描くか薄く構図だけ描いて、後で本番描きで絵を描いていました。
石森先生の「マンガ家入門」は私のバイブルでした。あの本って2冊あったんですよね。
「マンガ家入門」と「続・マンガ家入門」の2冊。
どちらもまだ我が家のどこかに残っていると思います。
あと、手塚先生の「マンガの描き方」という本も持ってました。
ガロやコムは、お金がなくて買えませんでしたが、立ち読みなどで読んでました。すごく気になるマンガ雑誌でした。
普通のマンガ雑誌より、本格的で、なおかつ高尚で通好みな本でした。
ガロでは「カムイ伝」「水木しげるの短編」、つげ義春さんなどのマンガが掲載され、コムでは手塚先生の「火の鳥」が目玉でしたね。
学生を卒業して会社に入った時、会社の資料部屋に、ガロが多数揃っていて感激した覚えがあります。
石森先生や手塚先生は、様々なジャンルのマンガを描いてました。そんな幅広い守備範囲は私にとって尊敬すべきスタイルでした。
私が、級友のリクエストに応えて、色んなジャンルのオリジナルマンガを描くようにしてたのは、石森先生や手塚先生の守備範囲の広さに憧れてたからだと思います。
自分のために描いたマンガでは、他に魔法少女モノ、藤子不二雄スタイルの幼児モノ、お色気女性アクションモノ、ナンセンスもの、など色んなオリジナルマンガも描こうとして実際に描き始めたりしたのですが、魔法少女ものや藤子不二雄系の作品は、数ページ描いて挫折しました。後が続かなくなったんです。
でも、お色気女性アクションマンガは、最後まで描きあげ、確か2編ぐらい完結までもっていけたと思います。
中学2年の時にビートルズ。続いて中3の時に吉田拓郎さんやボブディランに出会わなかったら、私はマンガ家志望を続けていたかもしれません。
ビートルズ、そして続いて拓郎やディランにまで出会ってしまったのは、私にとって「ダメ押し」でした。
なんか、私にとってはターニングポイントになってしまいました。マンガ家から音楽のほうに。特に作詞作曲のほうに、自分のメインが進路変更してしまったのです。
マンガを描くことは、さして大変なことだとは思ってませんでした。
自分の中から「ともかく描きたい」という気持ちが絶えずわき上がってきてました。
その気持ちを白紙のノートに吐き出すように描いていました。
そして、自分の描いたオリジナルマンガがいつかアニメ化された時を想定して、自分の描いたオリジナルマンガに主題歌まで自分で作って遊んでいたのです。
まさに妄想が膨らんでたんですね(笑)。
ただ、小学生の頃にオリジナルマンガに自分で主題歌まで作って遊んでたのは、その後自分の趣味が作詞作曲がメインの趣味になる下地になった気はしています。
作詞作曲の楽しさも、それで覚えましたから。
バンドは他のメンバーがいないと出来ないですが、作詞作曲はひとりでもできますので、その意味じゃマンガを描くことと共通しているように私の中では捉えていたのかもしれません。
だんぞうさんは、本物のマンガ家志望の少年だったんですね。
1938gooさんへのレスも読みましたが、創作意欲が、
ふつふつと漲るというか、マンガへの情熱が、目に見えるようです。
自分の創作したマンガが、アニメ化した際のテーマソングの
作詩作曲まで、考えていたなんて本当にビックリです。
中学時代に、ボクのクラスにも、一人、異常に絵がうまい友人が
いました。
彼は美術の時間に、絵を描くのが、とても早かったのが印象に
残っています。(石膏デッサンやクロッキーを、かなりやったそうです)
彼は、川崎のぼる氏の作品(少年ブックに連載された西部劇モノ)
を模写したものを、見せてくれました。
本物のマンガの生原稿のようで、迫力がありましたが
彼自身のオリジナル作品は、まだ無いようでした。
ガロやCOMは、彼に借りて読んでいました。
COMの「火の鳥〈未来編〉」で、火の鳥の力で死なない体にされた
マサトが、何万年も独りで生かされ続ける、エピソードがありましたが
これが、とても怖かった記憶があります。
ガロは、当時のボクには、「カムイ伝」以外は難解な作品が多かったです。
「ねじ式」は???でした。(中坊がカッコつけて、読んでいたような…。)
ザ・ビートルズや、吉田拓郎氏、ボブディラン氏の曲は、
現在でもラジオで、よく紹介されています。
彼らの曲の持つポテンシャルは、普遍的な魅力があって、ボクも
昔、録音したカセットを聞いていると、心が癒されます。
視覚情報のマンガでも、聴覚情報の音楽でも、人間の心を勇気づけ
明日への活力を与えてくれます。
それらに影響され、いつしか自分で描くようになりました。
最初は、既製のキャラの似顔絵を描いてたんですが、だんだんそれだけでは物足りなくなり、オリジナルのキャラで漫画を描くようになりました。
作詞作曲に関しては、幼少の頃から鼻歌で出まかせで適当に作ってたので、自分の漫画に主題歌を作るのは楽しかったです。
毎晩風呂に入った時に、少しづつ自作の主題歌を手直ししていたのを覚えてます。
川崎のぼるさんの絵の影響は、私も受けました。
野球漫画を描いてた時など、もろでした。
火の鳥は、後に大判の単行本を揃え、まとめ読みしましたが、そのスケールに圧倒されたのでした。
本当に凄い作品でしたね。
私はガロとコムでは、どちらかというとガロの方が好きでした。
ビートルズや拓郎やディランをベーシックに、あとは際限なく好きなミュージシャンがあらわれ続けました。
その結果、今の私になってしまいました(笑)。
可愛いタイトルですね。
有名出版社漫画編集部へ持ち込みされたら、間違いなく、さらに進歩向上されましたね。
私も小学一年生の時、漫画が上手な同級生に触発されて、漫画を描き始めたこともあったのです。
しかし同じキャラクターを何百回も描く技術も無く、ネタもすぐ切れて、終わりました(笑)
だんぞうさんは、音楽と漫画、天は二物を与えたのですねp(^^)q
まあ、タイトルを考えるのが面倒くさかったのかもしれません。
だんぞう少年は、とりあえずマンガが描ければよかったんだと思います。
中学2年のころビートルズに出会い、中3の頃に拓郎やディランに出会ってしまったのが、私にとっては相当大きかったんだと思います。
さらにその後、次から次へと素敵なミュージシャンの音楽に出会ってしまい、後戻りはしなかったんです・・。
天は二物・・??
とんでもない。
マンガは今ではもう描けません。
十代の中ごろ以後は、もう全く描いてませんから。
たまに落書きを描いても、ヘタクソです。
中学時代の私にすら勝てません。
やはり、普段描いているかいないかの差は歴然でした。