連日、厳しい猛暑日が続いています。
この夏、2度目の文教厚生委員会の県内視察に行ってきました。今回の視察先は、出雲商業高校、江津工業高校、津和野高校、吉賀高校です。
懇談では、雲南市や出雲市内の小・中学校、高校と盲学校、養護学校、特別支援学校2校の校長先生と意見交換しました。
「学力とは何か」-教科書で行う勉強だけでなく、運動など様々な能力、得てをいかした生きる力。
私は「学力を高めるには、生徒自身の学ぶ意欲があってはじめて学力として身につき、伸びる」という話に共感しました。
子供の貧困格差の拡大などによって、学ぶ意欲を持てない子どもの問題が深刻さを増しています。どの子にも教育の機会を豊かに保障していくことの大切さを痛感しました。
「学習をはじめ、様々な困難を抱える子供たちに寄り添えるよう、先生たちを増やしてほしい」「30人学級を小学校の1・2年生だけでなく、広げてほしい」-この現場の先生の切実な願いにこたえることが政治の責任です。
施設整備では、校舎の耐震化に取り組まれていましたが、老朽施設の改修計画はこれからです。
学校施設だけでなく、遠方から通ってくる生徒たちが利用する寮などの施設・設備の抜本的な改修が遅れており、また、通学定期の費用負担の軽減など、安心して学べる環境を充実させていかなければ、と強く感じました。
一人一人の生徒に寄り添い頑張っておられる現場の先生たちの努力に報いるために、議員としての責任の重さを改めて痛感しました。より良い教育環境とするために積極的な提言ができるよう、頑張らなければと決意を新たにしたところです。
今回、津和野で泊り、夕食後、(中村議員の案内により)宿の近くの津和野川の灯篭流しと盆踊りを見に行きました。赤、黄、緑、だいだいなど、色とりどりのかわいい灯篭が川面を流れ、黒い頭巾のようなものをまとった踊り手による盆踊りがとても幻想的でした。
街中は平穏さを取り戻していますが、いつもなら観光客でにぎわっている街が静かです。翌日は、出発を1時間早めて被災現場を視察しました。
先般の被害調査の時は立ち入りが出来なかった県道(萩と津和野を結ぶ)の崩落現場は、通行ができるようになっていましたが、大型車両の通行はまだ制限されていました。道路が大きくえぐり取られ、巨大な岩と土砂が川を覆っており、改めて、この度の被害のすさまじさを感じました。
一日も早い復旧と”山陰の小京都”といわれる津和野町に観光客のにぎわいが戻ることを念じつつ、津和野を後にしました。
この夏、2度目の文教厚生委員会の県内視察に行ってきました。今回の視察先は、出雲商業高校、江津工業高校、津和野高校、吉賀高校です。
懇談では、雲南市や出雲市内の小・中学校、高校と盲学校、養護学校、特別支援学校2校の校長先生と意見交換しました。
「学力とは何か」-教科書で行う勉強だけでなく、運動など様々な能力、得てをいかした生きる力。
私は「学力を高めるには、生徒自身の学ぶ意欲があってはじめて学力として身につき、伸びる」という話に共感しました。
子供の貧困格差の拡大などによって、学ぶ意欲を持てない子どもの問題が深刻さを増しています。どの子にも教育の機会を豊かに保障していくことの大切さを痛感しました。
「学習をはじめ、様々な困難を抱える子供たちに寄り添えるよう、先生たちを増やしてほしい」「30人学級を小学校の1・2年生だけでなく、広げてほしい」-この現場の先生の切実な願いにこたえることが政治の責任です。
施設整備では、校舎の耐震化に取り組まれていましたが、老朽施設の改修計画はこれからです。
学校施設だけでなく、遠方から通ってくる生徒たちが利用する寮などの施設・設備の抜本的な改修が遅れており、また、通学定期の費用負担の軽減など、安心して学べる環境を充実させていかなければ、と強く感じました。
一人一人の生徒に寄り添い頑張っておられる現場の先生たちの努力に報いるために、議員としての責任の重さを改めて痛感しました。より良い教育環境とするために積極的な提言ができるよう、頑張らなければと決意を新たにしたところです。
今回、津和野で泊り、夕食後、(中村議員の案内により)宿の近くの津和野川の灯篭流しと盆踊りを見に行きました。赤、黄、緑、だいだいなど、色とりどりのかわいい灯篭が川面を流れ、黒い頭巾のようなものをまとった踊り手による盆踊りがとても幻想的でした。
街中は平穏さを取り戻していますが、いつもなら観光客でにぎわっている街が静かです。翌日は、出発を1時間早めて被災現場を視察しました。
先般の被害調査の時は立ち入りが出来なかった県道(萩と津和野を結ぶ)の崩落現場は、通行ができるようになっていましたが、大型車両の通行はまだ制限されていました。道路が大きくえぐり取られ、巨大な岩と土砂が川を覆っており、改めて、この度の被害のすさまじさを感じました。
一日も早い復旧と”山陰の小京都”といわれる津和野町に観光客のにぎわいが戻ることを念じつつ、津和野を後にしました。