この1年という時を過ごして、導かれた答えがある。
「良いものに対して、良いとはっきり伝えること」
これが全て。
広く世界を見ればまだまだの実力だとしても、1mmの成長だとしても…
俺のかけるべき言葉はそんな個人が導いた世界を認めることだった。
例え世界ではちっぽけな存在でも、自分史上最高の結果を出したことに対して、もっと大袈裟にリアクションをしてあげるべきなのだ。
「まだまだ足りないよ」
という言葉は案外恐ろしいもので、その言葉1つで苦しむ子だっている。
俺は今まで、そこへの優しさが圧倒的に足りなかった。
俺の人生は、まだまだ足りないの連続。
親友はよく、「何も変わらない」という言葉をかけてくれて、引退と共にに知ったことはそれこそが「優しさ」だった。
でも、それは俺自身の世界観にすぎない。
その世界観を無理矢理押し付けて、認めるべきことを認めず、教え子たちを苦しめてしまった。
それが1年前であって、今年度の7月くらいまでそのやり方を続けてしまった。
これは、紛れもなく俺の未熟さであり、弱さであり、そして罪だった。
「それじゃダメなんだ」
という言葉は一体どれだけの重荷になっていたのだろうか…
「俺のやり方」を貫いただけで、個人への向き合いに欠陥があった。
それでも、彼らは着いてきてくれて、直向きな努力と共に成長したが、ちょうど1年前、全てが限界を迎えて崩れ落ちてしまう。
彼ら自身と向き合うことを怠り、そして自分自身を見失い…
このノートに空白の期間があったのは、俺が自分自身と向き合うことから逃げた時間だ。
どこまでも未熟で、不甲斐なかった。
そして、今が良ければそれで良い訳がない。
愛を与えられなかった過去は消えず、それゆえに現中1の目は暗く映る。
最後の最後まで優しさを見せなかった愚かさが、彼らからバスケットの楽しさを奪っているのだとすれば、その過去とも向き合わなければ。
可能な限り彼らの試合を見に行くのは、その側面が強い。
彼らに厳しさを与えたなら、1日でも多く彼らの試合を見に行くことは、俺の責任。
そしてそれだけではこの過ちとは向き合いきれない。
最後にかけるべき言葉は、間違った行いへの謝罪と、彼らがいたから俺がいるという感謝と、そして成長を認めること。
過ちをおかしたなら、ごめんが言えること。
生きがいだったと素直に言い切れること。
例え少しの成長だとしても、「上手くなったね」が言えること。
もし俺が成長したと言い切るならば、彼らのことが大好きならば、これだけは欠かせない。
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