自助努力でどうしようもないものは、もはやご縁のないものでしかない。
そういう定説は、もはや色んな箇所で聞いていると思う。
それの対象が、
もはや「家族」であることの現実を突きつけられているが、
それにそんな「合理化」のような概念って、持ち込むものなのか。そんな理論で片付けていいものか。
自分は、違うと思う。
何せよ、
実家といい、数年前できた家族といい、
離れて暮らしてるとはいえど、
その「家族」を維持するための離婚だったのではないか。
その辺りの対象となる人物は、
もはやどうあがいても何も動かない。
そんなかけがえのないところを、
諦めよ、てな教えが、そこにある。
そこに整理つくような都合のいい人生は歩めない。そんな器用な奴ではない。
これ以上聞くこともできない、片親疎外。
そこまでの危害は、加えた覚えはない。
むしろ度々守って、自分の人生の箇所や、健康状態、周りの信頼も損ねてまでしてきて、そういう片親疎外の結果となっている。
因果関係としてもどう考えてもおかしい。
第三者の納得する物的なり論拠なりの証拠がなくても。
…自分は、「家族」には、ご縁はなく、手に入っても後から知らない処で強制的に失うもの。
とかく、
別の箇所で領域を攻めて、新境地を開拓するに、
自分の周りの人物には、
そこは恵まれたとは、思う…
…その恩は、その人たちに返すしかないんだろう。「家族」では、なく。
しかしどう考えてもどう書いても、体感を伴わせるに、まだ苦しいのが本心だ。
(電車の移動中に、書き終えた。おおよそ1200文字。)
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