国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

第5代国鉄総裁 石田礼助とは 第4話

2021-05-04 22:07:08 | 国鉄総裁

石田総裁誕生

石田総裁のことを参照するのに、城山三郎の伝記、「粗にして野だが卑ではない」を参考に書かせていただく部分が多いことを最初にお断りしておきます。

石田総裁は、十河氏の後任として、昭和38年5月20日に第5代国鉄総裁として就任しました。
その際の記者団との会見で

  •             新幹線と第2次5箇年計画の完成
  •             諮問委員会答申問題の解決
  •             能率と投資効果の向上
  •             安全確保
  •             汚職追放等

 以上5項目にわたる方針を披瀝、あくまで奉仕と犠牲の精神でサービスに徹する所信を明らかにした。

国鉄があった時代 http://jnrera3.webcrow.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_38.html

なお、14時から本社9階大会議室では、国鉄45万職員に向け、新旧両総裁のあいさつが行なわれ、SHF網で全国に同時中継されたそうです。

参照・国鉄があった時代 昭和38年前半

「粗にして野だが卑ではない」の意味とは?

石田総裁の考えの根底にあることは、正しいことを正々堂々とするという信念でした。
この考え方が、「粗にして野だが卑ではない」と言う言葉であり、敢えてそこに私心があるとすれば、それは『天国への旅券(Passport to heaven)』を得るためだという心でした。
私心というか欲というものからではなく、あくまでも公に徹すると言うことを信念にしていた人であったことが窺えます。
また、石田総裁の優れていたことは,その責任の取り方でした。

仕事は任せるが最終的な責任は自分が取るというスタンスで、十河総裁時代に辞職していた磯崎叡を副総裁に据えると共に、昭和33年に退職して、日本交通技術株式会社社長に就いていた藤井松太郎を呼び戻して再び技師長に据えることで、自信のスタッフを固めていくことになりました。

ここに、十河総裁時代に辞めた二人が帰ってくることとなったのです。

さて、ここで「粗にして野だが卑ではない」から、当時の就任直後のお話しなどを引用させていただきます。


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 石田の国鉄についての理念は明確であった。
 「企業精神で能率的に経営していく」そのため「できるだけ合理化をやらなけりゃいかん」し、「もっと営利心をもて」
 同時に、「弾力性のある独立採算」ができるよう、政府・国会に強く働きかける。
 総裁の仕事としては、嫌なこと、総裁でしかできないことだけやり、決断はするが、実務はすべて磯崎以下に任せる。弁解はしない。責任はとる。
 それは、これまでの長い支店長生活で一貫してとり続けてきた姿勢でもあった。
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理想的な上司、手柄は部下に、責任はトップに

池田勇人が画策したように、政敵に成長していた佐藤栄作を牽制しつつ、国鉄には企業性を持たせるために石田総裁を総裁に据えたその狙いは当たったと言えそうです。
また、石田礼助は、就任時77歳という高齢であり、十河氏が就任したときが71歳であっただけに更に高齢になった国鉄総裁に対して、不安を示す声もありましたが、それに対しては、「気分はヤングソルジャー」「心はウオームハートじゃ」と言ってのけたように、その年齢を感じさせないパワーがありました。

そして、ここで書かれていますように、石田総裁は、「弾力性のある独立採算」ができるよう、政府・国会に強く働きかける。と宣言しているように、実際に国会などに直接働きかけるのでした。

世論は新総裁に概ね好意的

さて、ここで。新総裁誕生を世論はどの様に捉えていたのでしょうか、国鉄線 昭和38年7月号の世論アラカルトに当時の新聞記事などの様子が書かれているのですが、旧三井物産の社長という財界の大立者であり,国鉄の監査委員長を2期6年勤めたおり、世間では概ね好評理に迎え入れられていたようです。
国鉄線 昭和38年7月号から引用してみたいと思います。


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5月20日、国鉄の総裁に石田礼助氏が任命された。新総裁は、財界の相談役的存住であったし、国鉄の監査委員長を二期、六年もっとめられたいわば国鉄にとっても大久保彦左的存在だったということで、世論は新総裁を心からなる拍手をもって歓迎したし、またそれだけに新総裁に対する期待も大きいようだ。「だれもなりてのなかった国鉄総裁を敢然として引きうけ、勇気りんリんとその抱負を語る石田新総裁の信念と熱怠は大したものだ。国鉄の悩みも矛盾も弱点も欠陥も一応は知りつくしているといってよい。ずばずばと病めるマンモス"国鉄"の病原を衡き、おれはこうしてこの病気をなおすつもりだ、とはっきりいいきる。そして国鉄に今なお残る官僚風と親方日の丸意識を極端に憎む。国鉄のもつ公共性と企業性を能率によって調和させようというあたりもビジネス・マンらしい考え方だ。」(読売・編集手帳・5・15)
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昭和38年7月、国鉄線から引用

これ以外にも多くのマスコミなどでは、国鉄の総裁が民間から受入れることができたとして、政府の対応も評価しています。

実際、民間出身の石田総裁は、政治家に対しても歯に衣着せぬ物言いで、切り開いていくことになるのですが、その辺は日を改めて詳しくお話をしたいと思います。

続く

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