国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

国鉄改革のあゆみ 34

2010-06-11 00:58:03 | 国鉄改革関連

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新国労時代から労使協路線を貫いいてきた鉄労は、今回の分割民営化に際しては最も注目される組合となりました。
そんな中で、鉄労大会に挑んだ組合員に対し、風間組合長代行のあいさつを下記の通り公企労レポートから引用させていただきます。
なお、鉄労は社会党右派を中心にした民社党【その後新進党に吸収合併】を支持しており、総評に所属し、社会党を支持する動労や国労とは一線を引いていました。

風間組合長代行あいさつ(要旨)

本大会は、国鉄改革に付随して私たち鉄道労働組合の大改革を論議するという重大使命を帯びている。その意味では国鉄労働運動史上特筆されるべき大会であり、その観点に立って所見をのべたい。今回の選挙では、組織内候補である中村正雄、河村勝両先生は堂々と当選をかちとられたが、民社党は惨敗した。しかし、私たち鉄労と国鉄にとってはかけがえのない鉄道議員懇は82名が当選した。自民党が大勝に終わったことは、国鉄改革の条件を完了したものとして、その側面から見れば意義あるものと考える。
私たちのこの一年間の活動は、一方では改革の具体策を進めつつ、一方では組織の拡大に全力を注いできた。この一年多数の仲間を迎え、国鉄内組合第二位の組織を復活した。これは鉄労運動の正しさの証明であるとともに、同志諸君の取り組みの大きな成果である。
しかし、私たちの目指しているのは、国鉄全体の民主化であり、組織拡大ができたと言っても国労の一角を崩しただけで、本当の戦いはこれからであり向こう八ヶ月が決戦になることはあらためて肝に銘じなければならない。
杉浦総裁就任以来、わずか一年余りにして国鉄本社の姿勢がこれまでに変ぼうしたということは高く評価されるべきだと思う。しかしここの施策が総裁の目指すとおり下部まで正確に伝わっているかといえば総体としてノーである。総裁に対して本社幹部が、ひたすらおもねて服従している姿は、新生国鉄のために害はあっても全く益のないことである。
現在、雨後の竹の子のごとく国労批判勢力が労働組合を結成している。国鉄には、労働組合と運動に対する経営哲学がなかったが、改革への大同団結は姑息な手段では決して成功しない。
社会正義と近代的労使関係の確立を大目標に約30年にわたり必死の労働運動を展開してきた私たち鉄労は、その大目標を達成しないままに職場である国鉄が今やなくなろうとしている。新事業体発足後に鉄労の花は咲くのだという見方は、現実を無視した夢である。残る260日の期間に、鉄労運動の真価と力量を発揮しなくてはならない。
国鉄改革は心の改革、変革でもある。改革の作業が急速に進んでも鉄労組合員ならば必ず対応して生き残れる。私たちの心と過去を振り返るだけの慣習主義をまず改革しよう。
内外注視の大会であり、最後の正念場の闘い、行動である。より良い明日を信じ、勝利の栄冠を勝ち取るまでたゆまぬ努力を期待する。

組織内候補・・・当時鉄労は民社党を支持しており、民社党は右派社会党が分離したもので、反共、社会民主主義を標榜し、労働者を組織票とする政党であるが、現在の社民党や立憲民進党等の左派よりではありませんでした。むしろ右派と呼ばれる存在でした。

中村正雄・・・引用wikipedia

中村 正雄(なかむら まさお、1914年2月13日 - 2002年4月4日)は、日本の政治家。元民社党参議院議員・衆議院議員。

現在の岡山県総社市生まれ。1936年関西大学専門部法科を卒業。国鉄に入る。戦後労働組合運動に参加。

1947年参院選全国区に日本社会党から出馬し初当選(連続4回)

1960年1月民社党結成に参加。

1976年、旧大阪2区より衆議院議員に転ずる。当選5回。

1977年12月新委員長に選出された佐々木良作委員長の下で向井長年参議院議員会長、小平忠らと中央執行副委員長に就任。党内では、小平副委員長、塚本書記長、大内政審会長らと春日常任顧問よりと目されている。

1985年塚本三郎委員長の下で佐々木、小平と共に党常任顧問に就任(党内において春日院政を敷く)。

1989年2月永末英一委員長の下で常任顧問に留任。

1990年2月大内啓伍委員長の就任で常任顧問を退任。同年政界を引退。

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%AD%A3%E9%9B%84」より作成

河村 勝・・・引用wikipedia

旧小田原藩士で海軍少将となった河村達蔵の長男として生まれる。河村家は波多野氏の別れで、源頼朝に歯向かい捕らえられるも、流鏑馬の技の妙により許された河村義秀以来山北地方を領した。以降南朝方につき河村城篭城戦で敗れ一旦没落するも再興し、小田原北条氏、小田原藩に仕え明治に至った。

府立一中、東京帝国大学法学部卒業後、鉄道省入省。国鉄本社秘書課長、新潟鉄道管理局長、本社職員局長を経て、常務理事を最後に退社。1957年の国鉄新潟闘争に際しては管理局長として交渉の前面に立つなど、国鉄における労働争議が極めて激しい時期を終始労働畑で過ごした。

1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で、旧神奈川3区から立候補し初当選。前の選挙で落選した片山哲の後継としての立候補だった。民社党を選んだ理由は、国鉄時代に西尾末広と接する機会があり、心酔するとともに西尾本人から誘われていたからだという。

その後通算7期当選。その間党政策審議会長、副書記長、衆議院沖縄・北方対策特別委員長、党副委員長を歴任した。塚本三郎を委員長と擁して隠然たる権力を握っていた春日一幸元委員長に会議上で公然と食ってかかる硬骨漢であるとともに、国鉄時代に民社系の鉄労と対立した国労を支持基盤とする社会党との連携に取り組み、社公民路線を進めるなど柔軟な一面も持っていた。これは思想的にも人脈的にも佐々木良作、永末英一と近かったためであり、比較的社会党とは距離を置き、自公民路線を取る春日-塚本三郎-大内啓伍のラインとは激しく対立した。

党副委員長在任中に体調を崩し政界から引退。その後、神奈川民社協会名誉会長、交通道徳協会会長を務めた。


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