国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

寝台特急 さくら 物語 第2夜

2008-04-14 00:49:07 | 国鉄思いで夜話
みなさまこんばんは、3日ぶりの運転開始です。m(__)m

いい訳らしきものをさせていただきますと、木曜日・・・帰宅が23時が続いていたので、流石にダウン、金曜日、夜間のアルバイトなどしておりました。・・・

さて、「国鉄があった時代」の年表ですが、かなり膨大になってきて自分でも多少修正加えたくらいではどこを修正したのか全くわからない状態?です。苦笑

さらに、調子に乗って平成19年まで拡張したものですから収拾がつかない状態です。

まして、思考力が昭和40年代で停止しているので、「昔信楽線で大きな事故がありましたね」と言われて調べてみたら、平成4年の事故だったり・・・昔の事故と言われるとどうしても六軒事故とか、三河島事故を連想するので、そこでも若い人とのギャップ?を感じています。苦笑

ちなみに、今日の第1話は、さくら、事故って「姥さくら」のお話です。

黒猫本舗 鉄道次点を紐解いて見ますと。

昭和36年12月29日

2:00頃 山陽線 西宇部~小野田間で準急「あきよし」が濃霧のため、2時間57分遅れで運転中
途中で停車していた先行の下り特急「さくら」を80m手前で発見急制動をかけるが間に合わず追突、「さくら」用20系客車は14両中12両が破損、あきよし用の車両も5両中4両が破損した。この事故で、20系客車の予備がなくなった「さくら」はしばらくの間10系寝台車を併結する姿で東海道を走った。

この日は大雪の影響で通信不能となり、列車の運転は前方を目視で確認しながら15km/h程度の低速で一定時間間隔毎に列車を運行する隔時法によっていた。前方に先行列車を見つけて停車中の「さくら」に「あきよし」の運転士が気づいたのは「さくら」最後尾から約80m手前で、45km/hと速度を出していたこともあり非常ブレーキを扱ったが間に合わなかった。この事故を機に隔時法は廃止された。

となっており、この事故では、準急「あきよし」の乗務員が速度を出していたことや、夜間の濃霧と言う悪条件が有ったほか、ATSなどの列車停止装置が整備されていなかったことも原因と思われるのですネ。

このときの事故の写真を当時のピクトリアルで見たのですが、見事に追突された最後尾の客車は、凹んでいました。

ただ、当時の新聞の記事を見ると、「新型客車や、やはり頑丈・・・」って、充分原型損ねるほど壊れているのですがと突っ込みいれたくなりましたよ。

さらに、14両中12両が破損というのは、主に連結装置が破損したもので台枠の歪はなかったようですが、黒猫次点にも書いていますが、この事故では二等寝台【現代の言い方ではB寝台】の破損が著しく、これを10系寝台に置換えることになったのです。

20系寝台車の寝台幅は、とっても広い52cm幅のベッド、下手に寝返りを打てばそのまま地獄へまっさかさま?と言う大変スリルのある寝台車で、特に上段では冗談ではなくて怖い寝台車でした、これは10系急行形寝台車でも同じ、冷房装置はないですが、冬場なのであまり問題はなし、ということで20系+10系寝台のとっても素敵なでこぼこ編成が出来上がりました。

でも、問題がなかったわけではありません。だって、固定編成と謳った車両だけに他の車両とは連結できない純粋培養の客車だったのです。
当然、2等寝台車は仲間に入れてもらえず、機関車の後に、本来であれば電源車が来るところに追いやられてしまいました。

ということで、10系寝台車+20系編成と言うとんでもない編成が出来上がりました。
これだけでも充分変なのですが、当然2等寝台車に乗車した人にしてみれば、食堂車にもいけずじっと我慢の子を貫き通さなくてはいけないわけで、現在のブルートレインに通じるものがあるような・・・
 さすがに、国鉄も気が引けると思ったのか二等寝台の乗客からは100円引き【現在の価値だと1000円】で乗車してもらったそうです。

でも、口の悪い新聞記者たちからは、「さくらは咲いたが、姥さくら」と言って陰で笑っていたとかいないとか。


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