国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

国鉄労働組合史 199

2011-06-14 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第二節 新会社への職員採用差別・配属差別と配転・出向攻撃
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├○二 選別と採用差別の実態│
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九州における選別と差別の実態

 九州全体での不採用者は2700人もあったが、そのうち国労組合員は1683人(62%)であった。採用された割合を組合別にみると、門司地本では意思確認書を提出した2451人から国労組合員1112人(採用率55・6%)が採用され、熊本地本では鉄道労連が99・2%、鉄産労67・9%、国労14・3%の採用率、大分地本では鉄道労連が99・9%、鉄産労92・6%、国労24・1%の採用率、鹿児島地本では動労、鉄労が100%採用であったのに対して九産労が84%、国労は28%、という状況であった。
 九州での選別と差別採用の特徴としては、門司地本では国労分会役員401人のうち採用されたのは71人でしかなかったこと、熊本地本で採用状況がもっともひどかったのは大牟田駅連合分会が5%、熊本客車区分会10%、大牟田保線区分会13%であったことなどが指摘できた。さらに、大分地本では運輸長表彰6回、営業部長表彰1回の優秀な職員(国労組合員)が清算事業団行きになっていた。
 鹿児島地本の場合、国労組合員で国労指令の行動以外に処分歴のない者が人活センターに配属されて不採用となったのに対し、停職4カ月などの処分歴のある九産労の組合員が採用されたケースがあり、都城人活センターには全員国労組合員が配属されていたが、その36人中採用されたのは2人だけで、しかもその2人は長期病欠者と遠隔地採用者であった。また、鹿児島電通分会では九産労、動労、鉄労の組合員は100%採用され、新会社希望の国労組合員7人から1人だけ採用されたが、この人は2月1日に九産労からの復帰者で、内命の時に区長が「君は国労だったのか」
といったという。

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├○三 採用国労組合員を差別的に配属│
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 国鉄「分割・民営化」の過程でくりひろげられた新会社等への選別・採用差別は、〝国労つぶし?を狙った人件侵害をともなう国労攻撃であったが、新会社等へ採用された後の国労組合員に対する攻撃もまた、理不尽な配属差別、人を人とも思わぬ配転・出向の連続攻撃であった。1987年3月になると、3日から新会社移行へ向けて人事異動(新会社採用職員の配属)の内示が始まった。それらは3月10日発令で、国鉄当局は16日から、4月1日発足の新会社など11法人に採用された約20万1000人の一般職員に、新会社などにおける仕事の内容や給与などを記した配属先通知書の手交を開始した。
 それらの内容をみてみると、明らかに〝国労つぶし?を狙ったきわめて意図的な選別と差別が行われていた。すなわち国労組合員に関しては、異系統への配属、国労支部・分会役員はほとんど他の職場へ配属、人活センターに収容されていた者には「事業部兼務」の名が与えられ、新たな「人活センター」に集中された。
とくに運転関係はひどく、国労組合員のほとんどが本来の運転業務から外されていた。

続く

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