国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

国鉄労働組合史 202

2011-06-17 15:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第二節 新会社への職員採用差別・配属差別と配転・出向攻撃
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├○二 配転・出向などの国労攻撃│
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 配属差別は、JR体制発足にあたって事業の中枢部門から国労組合員を排除し、それらの職員を「兼務」という名のもとに本来業務とは関係のない仕事につかせた。つづいてJR会社などは、その発足後も国労組合員を狙い打ちにして、配転と出向を強行した。その根拠はJR会社などが一方的に作成した新就業規則によるもので、その実態は?国労いじめ?以外のなにものでもなかった。
 東日本旅客鉄道株式会社就業規則第28条は、その第1項と第2項で次のように規定している。
 ① 会社は、業務上の必要がる場合は、社員に転勤、転職、昇職、降職、昇格、降格、出向、待命休職等を命ずる。
 ② 社員は、前項の場合、正当な理油がなければこれを拒むことはできない。
 もともと国鉄時代にあっては、ここ数年の異常な国労攻撃の時期を除けば、長年の労使関係のもとで転勤等について本人の意思に反した強制は行われないのが実態であった。また批判の強かった派遣等の三項目についても、本人の同意は最低限の要件とされてきた。それが新会社などでは、出向、待命休職など本人の地位と生活に重大な影響をもたらす人事についても、本人の意思を無視して強行してきたわけである。これらもまた、配転差別、出向差別の不当労働行為として各地の労働委員会に救済命令の申し立てが行われ、そのほとんどが認められた。

 「配転」の名による?国労バラし

 すでに不当配転によって有楽町駅構内のJR直営店《どんぶりっ子》の要員にされていた国労組合員は、地元商店街の反対運動などで7月開店予定が秋頃まで延期になったのをうけて、またも配転にさらされた。それは、人を人とも思わぬ会社側の「配転」事情を如実に物語っていた。
 この店の店員として5月2〇日から配属され、見習い修行をさせられていた国労組合員3〇人は、JR東日本会社の関連事業部から「開店を当分延期する」との発表をうけて、7月31日付(2人は先に14日付配転)でまたも別の職場へ飛ばされることになった。この2カ月間でようやく国労としてまとまり、地元商店街や国労有楽町駅分会の開店反対運動との連携もとれてきた矢先であった。3〇人は、東京・上野・川崎など七つの駅の『大清水』へ7人、『旅路』へ7人、『アメリカンポテト』へ6人、『品川どんぶりっ子』へ6人、品川~大船間の各『旅路』へそれぞれ1人というように、再びばらばらにされてしまった。その中の1人である車両検査のベテランは、前年3月に本務を外され、その後1年
4カ月の間に7回も職場が変わったが、これまでの「配転」について次のように語っていた(『国鉄新聞』87年7月31日号)。
  「2カ月ちょっとで転々させられたのでは仕事も手につかないし、仲間とゆうくり話し合うこともできない。5月2〇日に兼 務発令で、ここに強制配転。研修と称して皿洗いなどをやらされているうちに、当分開店できないからと、東京駅の『大清水』行きだ。会社の経営上のミスで開店できなくなったんだから、 その責任からもオレたちをもとの職場に戻すのが筋だ。私は蒲田電車区だが、分会員114人の中本務についているのは27人だけ。みんな大宮から熱海まで散り散りになった。東京駅だけでも6カ所に配属され、地区分会で班をつくり組合活動をしているが、機関紙も昼休みだけでは配りきれない。これからは、それぞれが働いている建屋ごとに活動体をつくるなどの工夫が必要じゃないか。」
 三鷹電車区では、国労組合員であるが故に本来業務の電車区に戻されない事例もあった。
 1987年3月の配属通知で国労三鷹電車区分会所属組合員8人が営業係「兼務」として駅勤務に配属されていたが、その後同年4月から11月にかけて3人が国労を脱退し、鉄道労連に加入した。すると翌88年11月の配転で、これら3人は「兼務」を免ぜられて三鷹電車区に帰ってきた。同時に、蒲田電車区や山手電車区、池袋運転区、拝島運転区から7人が三鷹電車区に配属されてきた。ところが、さきに国労を脱退した3人と一緒に「兼務」で配属されていた国労所属の5人は三鷹電車区に戻さないままであった。国労三鷹電車区分会は88年11月4日、このような組合所属で差別する不当労働行為に抗議するとともに、速やかに国労組合員の「兼務」を外し、三鷹電車区に配転するよう区長に申し入れた。

続く

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