国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

国鉄労働組合史 203

2011-06-18 10:00:00 | 国鉄労働組合史
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第四章 JR体制への移行と国労の闘い

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第二節 新会社への職員採用差別・配属差別と配転・出向攻撃
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├○二 配転・出向などの国労攻撃│
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 国労東京地本などにおける出向差別の実態

 つぎに出向差別の事例としてJR東日本の東京圏運行本部における出向人員の系統別・組合別実態をみてみると、会社発足直後の第一次出向(6月18日?30日)の場合、全体で34人の発令が行われ、そのうち国労組合員が30人(運転系15人、施設系15人)、鉄道労連組合員3人(施設系1人、営業系1人、その他1人)、鉄産労1人(電気係)となっていた。
 これらの人たちは、どんな会社に出向を命ぜられたのか。東京地本の調査によれば、おおよそ次のようになっていた。
 まず国労運転士の15人は、鉄道弘済会横浜・小田原・上野・大宮・宇都宮・新宿・立川営業所、国鉄車両整備(株)、エスビー・コマース、みなみ開発(株)などへ出向を命じられ、国労施設系の15人は、(株)井上工業所、渡辺電気制作所、潤生興業(株)、東鉄工業(株)、双葉工業(株)、大日本土木工業、福進工業、ユニオン土木(株)、名工建設(株)、旭工業(株)、坪井工業などへ出向を命じられた。労連組合員の3人は、施設系が双葉工業(株)、営業系が日本観光旅館連盟、助役が東京テレメッセージへ、鉄産労の1人は東京テレメッセージへ出向を命じられた。
 さらに第二次出向(7月1日?7月30日)の場合は全体で74人であったが、そのうち国労組合員52人(運転系20人、施設系7人、営業系24人、その他1人)、鉄道労連組合員13人(施設系2人、営業系4人、管理者などその他7人)、鉄産労組合員8人(営業系6人、車掌2人)、未加入1人であった。
 これらの状況から一目でわかることは、出向を命じられた者の中では最大組織の鉄道労連組合員よりも国労組合員の方が決定的に多いということであり、しかも運転系(運転士)で出向を命じられたのは国労組合員だけであり、他の組合の運転系組合員は1人も出向者を出していないということであった。このデーターからだけでも、選別と差別の出向攻撃がいかに国労組織を狙い打ちしていたかは明確であった。これらの事態は、もとより東京に限られたことではなかった。
 さらに、JR体制発足から2年近くの間に北海道や九州からいわゆる「広域採用」が3回行われ(本章第7節1参照)、それら採用者はもとより国労組合員がほとんどであったが、本州JR各社に採用された者たちを待ち受けていたのは、即出向の発令であった。たとえば、国労東日本本部が調査した第3次広域採用者の即出向のケースは、89年6月1日現在で次のような数字になっていた。
 すなわち、第3次広域採用で東京・千葉・水戸・高崎に配属された者は合計で510人あったが、それらの組合別人員は、国労464人、全動労34人、鉄産労7人、未加入5人となっていた。
これらのうち即出向を命じられた者は422人(82・7%)にも及び、その組合別人員は国労389人(92・2%)、全動労28人(82・4%)、鉄産労2人(28・6%)、未加入3人(60%)であった。
 このような実態について、国労東日本本部は5月から6月にかけて、東京地本関係の横浜・国府津分を神奈川地労委に、神奈川所在職場組合員をのぞく180人分を東京都労委に、千葉地本関係は電気職場に発令された人を除いて千葉地労委に、水戸地本関係は病気で赴任が遅れた1人を除いて茨城地労委に、高崎地本関係は群馬地労委にそれぞれ救済の申し立てをおこなった。
 他方、労働者とその家族にとって、自分が望んで入った会社とは別の会社に「出向」させられることが、どんなに不安なことか。
国労新幹線協議会は、出向問題でJR東海会社が団体交渉に応じようとしないので東京地労委に救済申し立てを行っていたが、87年7月20日の審問の中で出向内定者の妻が次のような文章(要旨)を読んで、公益委員に家族の不安を訴えた(『国鉄新聞』87年7月31日号)。

  「うちの主人は最近ついていません。去年の秋からのことです。
 いきなり浜松へ1カ月も送られ、家族は離れてしまいました。
 私は群馬の田舎へ帰っていました。主人は私と子供に会いに毎週、高いお金を払って、やってきました。やっと戻ったら今度 は『人活』に入れられてしまったのです。そして半年の間、従来の検査の仕事に戻れることを願い、いやな仕事もがまんして頑張ってきました。そして4月になり、東海会社に残れて安心したのもつかの間、新会社でも検査の仕事につけず、警備の仕事につかされたのです。朝日新聞に載った『第2の人活』です。
 子供たちにとって、新幹線はあこがれの的です。うちの子も、もう少し大きくなったら『おとうさんは新幹線の仕事をしてる んだよ』とみんなに自慢するだろう、と思います。その自慢の仕事から、もう1年近くも遠のいています。
 そして新たに起こった最悪の試練が『出向』です。今までになく本当に不安の毎日が始まりました。出向先はスズキ自動車の営業所です。行くとなればスーツを買い、スズキの車も買えと言っているそうです。そんな、ばかばかしいことを毎日、上司から言われるそうです。家族も不安でいっぱいです。組合の代表と、くわしいことまで決めていただきたいと思います。出向の期間はどうなっているのでしょうか。出向が終わった後、元の職場に戻れるのでしょうか。
  どうか、お願いです。これ以上私たちをいじめないで下さい。
 そして、子供の夢である青い新幹線の職場に戻してやって下さい。これ以上の差別はやめて下さい。」

続く

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