北海道に測って多くのローカル線が存在していたが、その多くは廃止されてしまいました。
昭和57年の美幸線の時刻表
今回お話する美幸線は、昭和39年10月5日に「美深~仁宇布間 (21.2km)」 が美幸線として開業しました、元々北見枝幸まで延長することを目的としていましたので、美深と北見枝幸の両方から1字取って「美幸線」と呼ばれていたのですが、沿線地域は人口も希薄で開業当初から日本一の赤字線というレッテルを貼られる始末でした。
トロッコ王国のある辺りが、美幸線の終点仁宇布駅付近になります。
昭和49年の収支計数は3,859を記録、100円の収入を得るのに3,859円の費用を要する状況であり。「日本一の赤字線」を逆手に取った美深町の町長長谷部秀見による美幸線の宣伝活動や、切符の発売などを行い、当時の指定席であった最下位の位置を宇品線や添田線と争っていた時期もあるそうで、時々添田線に最下位の座を奪われて悲しい涙を流したとかいないとか。
そんな美幸線は、幸薄い路線だったようで黒字になることは一度もなく昭和56年の国鉄改革が遡上に登るとさっさと第1次廃止対象路線となってしまいました。
昭和40年の時刻表から、開業当初から廃止まで列車本数に変わりがなかったのもそれだけ当初から利用者が少なかったことを表しています。
地元では当然のことながら大規模な反対運動なども行われました、実際には北見枝幸まで開業したら流れが変わるということでかなり大規模な存続運動も行われたように聞いていますが、いかんせん集積される沿線人口が少ないだけに、構想として興浜線と合わせて第三セクター化した「オホーツク縦貫鉄道構想」が検討されましたが、黒字化することは当然のことながら難しかったこともあり、結局バス転換を受け入れることとなりました。
美幸線が廃止されたのは昭和60年9月16日、最終日には4往復の他臨時に2往復が運転されたうえ、5往復は堂々8連の編成で満員であったというお名残乗車組が多かったことを伺わせます。
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