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├○ 総評の結成と国労 │
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民同派の労働組合勢力は、49年には大同団結の機運を強めていった。それは、アメリカ占領軍の強力な後押しによる日本政府の行政整理や民間における企業整備の名による共産党系活動家のパージとメタルの裏表の関係にあった。49年10月には世界労連が分裂し、あたらに国際自由労連が結成されたが、この結成大会には、占領軍の後押しで加藤国労委員長も出席した。49年10月、総同盟・新産別・国労・正統派全逓など民同派23組合は、国会闘争共同委員会を設置した。50年3月、電産、炭労、全鉱など同組織加盟組合によって、賃上げを要求し、3月闘争が展開された。これには国労も参加し、一部で有給休暇消化運動や、後の順法闘争につながる職場規律運動も展開された。
その3月闘争の最中、総同盟と民同派組合を中心とする日本労働組合総評議会(総評)の結成準備大会が開かれた。国労もこの大会に参加し、さらに6月に開かれた国労第8回定期大会で、加盟を正式に決定した。総評は7月11日~12日、結成大会を開催し、基本綱領、規約、行動規範、当面の闘争方針や大会宣言を採択したが、全体として占領軍の後押しを受けながら、産別会議で影響力の強かった共産党支配を打破するという意味で反共的色彩が色濃く打ち出された。また、行動綱領では、国際自由労連への参加も盛り込まれた。
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├○ 朝鮮戦争の勃発と日本の情勢 │
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総評の結成直前、緊張の続いていた朝鮮半島で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)の間で朝鮮戦争が勃発し、日本(含む沖縄)は朝鮮半島の最前線基地となった。朝鮮戦争の勃発は、日本を西側の「自由陣営」に組み込む上で、決定的な役割を果たした。50年7月には、GHQは日本政府に。警察予備隊(今日の自衛隊)の創設を指令した。GHQはは、国内の政治・労働運動にも、共産党を中心に弾圧を行った。共産党の幹部の一部が公職追放され、『アカハタ』や『前衛』が発刊を停止された。また、47年の2・1スト中止後に結成され、、この当時はすでに共産党系の組合の集合体となってた全労連への解散命令が出された。さらに新聞通信部門を中心に、各産業でレッドパージの嵐が吹き荒れた。国際的には、対日講和条約ををソ連などの参加なしに行なおうとする「片面講話」条約の動きが急速に進められた。
日本経済は、49年にドッジプランが実施され、民間でも企業整備の名による解雇が行われた。そこの朝鮮戦争による特需が発生し、産業界は活況を呈し、戦後の復興、再建の飛躍台となった。だが、職場の労働者は無権利で、低賃金、長時間労働がまかりとおり、労働運動の分裂、停滞もあって、その状態は改善されなかった。
国労は、50年6月末からの第8回定期大会(登別)で、全面講和、永世中立、戦争反対の講話三原則を決め、後の社会党の平和四原則、総評の平和四原則の先駆けとなった。
10月の第9回臨時大会(松江)でも、この方針をさいかくにんし、同時に国鉄当局の23鉄道管理局設置など機構改革に対応する地方本部の設置を決めた。同大会では機関車協議会から、当局と団体交渉の職能別協議会代表を加えることが提案されたが否決された。このため機関車協議会の中で独自の組合結成の動きが強まり、51年5月、日本国有鉄道機関車労働組合(機労)が結成され、国労の最初の分裂となった。
51年1月、社会党は大会を開き、左右両派の大論戦を経て、講和三原則=全面講和、中立堅持、軍事基地反対と再軍備反対を決定した。この講和三原則と再軍備反対を合わせた平和四原則は3月の総評第二回大会でも採択され、総評は同時に国際自由労連への総括一括加盟を否決した、平和四原則の採択などに見られる総評への「左傾化」は、「にわとりからあひるへ」という比喩では呼ばれたが、総評内の平和四原則に反対する批判勢力(全繊同盟、海員組合など)は、54年4月、総評を脱退して全労会議(同盟の前身)を作った。
国労では、5月の中央委員会で、平和4原則による運動方針案と、平和4原則棚上げ、政治的中立の愛国的労働運動推進案が17対17となり。委員長の、委員長の二重裁決権で、後者の案が可決された。だが、6月の第10回定期大会(新潟)では結局、平和4原則が確定した。同時に国労民同派は左右に分裂した。
続く
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