国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

国鉄労働組合史 11

2010-10-17 10:46:54 | 国鉄労働組合史
にほんブログ村 鉄道ブログへにほんブログ村
にほんブログ村 JR・国鉄

この記事が役に立つと思われましたら、クリックをお願いします。 


 ランキングに参加しています。

おはようございます、本日も国労運動史からの記事をアップさせていただきます。

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
 二 行政整理後の国鉄労働組合のたたかい
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

┌───────────────┐
├○ 指令○号と成田中央委員会  │
└───────────────┘

 行政整理は、人員削減を意味しただけではなく、この整理を通じ、戦後初の国労運動の重要な一翼を担っていた共産党系活動家に対する指名解雇=レッドーパージという性格を持っていた。中闘の中では、17名(共産11、革同6)が解雇通告を受けた。この通告後、中闘では、公労法の趣旨(4条3項)と絡み、被解雇者の組合員資格が問題になった。中央闘争委員長は被解雇者の組合員資格が大問題になった。中央闘争委員長は被解雇者の資格を否定する発言を行ない、中闘は大混乱となり、事実上分裂した。
 49年7月22日、民同派中闘は、いわゆる指令○号を各機関に発し、8月15日に中闘の補充、新運動方針の決定などを議題として中央委員会を開くことを指示した。これは、線フ戦後の国労史に残る歴史的に不幸な指令であった。とはいえ、事実として、この中央委員会は成田で開催され、革同派の一部が加わったほかは、民同派にによって構成される新執行部が選出され、新賃金要求など新しい運動目標を決定した。ただ、歴史上、幸いであったのは、民同派の指令○号に始まる行動は、国鉄のなかでは組織分裂とはならなかったことである。翌年の50年1月の中央委員会では、共産党代表も挨拶して、事実上、成田中央委員会の諸決定について追認した。

┌──────────────┐
├○ 仲裁裁定完全実施の闘い  │
└──────────────┘

公労法の適用下の国鉄労使関係で出発当初から問題化したのが賃金決定問題であり、国鉄当局の当事者能力の欠如であった。公労法適用以後、「分割・民営化」以前の国鉄では、労使の自主交渉のみで賃上げが決定、解決した事例は51(昭和26)年を例外と考えれば、ほかには一度もない。賃上げ問題は毎年、調停、仲裁に移行した。しかも57年以前はは、仲裁裁定不履行(不完全実施)問題が再三発生した。かって50年の賃上げの際、国鉄調停委員会は調停を省略し、異例の仲裁請求を行ったが、藤林敬三国鉄調停委員長は、その際の談話で述べている。「公労法に於いて給与問題が団体交渉の範囲内にあると定められても国有鉄道公社には著しく限定された交渉余地しか残されていないので見方によっては全く団体交渉当事者としての能力が欠如していると考えられる。かくして公労法の精神にも拘らず給与改善の如きは当事者の双方の間で要求の意思伝達とこれを容れ難いとする意思表示が行われるだけであって、到底団体交渉の実が示され得ない状態にあるのも当然である。」(労働省『資料運動史』昭和25年版、76頁)。藤林委員長が、こうした私指摘をする状況下の賃金決定問題であった。以下、事例を見ていこう。
 49年の賃金引上げでは、国鉄調停委員会は8,058円ベース調停案を出したが、当局は拒否し結局、一時金として45億円を支払ったに過ぎなかった。50年の場合、こくてつ調停委員会は前回調停案を妥当だとして、異例だが調停を省略し、8,200円ベースの仲裁裁定を出した。これも49億円の一時金の支払いで、不完全実施となった。51年はは、10,824円の調停案が出された。その後、仲裁申請がなされたが、労使双方、団交で解決したいとして仲裁は打ち切りとなった。51年は、10,824円の調停案が出された。その後、仲裁申請がなされたが、労使双方、団交で解決したいとして仲裁は打ち切りとなり、調停案を基礎に労使協定によって解決した。52年8月以降、13,400円の仲裁裁定が出されたが、国会は11月以降の実施として議決した。53年は8月以降、15,370円の仲裁裁定が出されたが、国会は54年1月以降実施とした。54年から56年にかけては、ベアの調停、仲裁裁定自体が出されなかった。この場合、54年のの人事院勧告留保、中労委の私鉄、電力に対する定昇のみ、ベアなしのあっせん案などとの関連が大きかった。
 仲裁裁定などの不完全実施に直面し、当初は合法闘争を推進するという方針の国労も、次第に態度を硬化させ、合法的実力行使(順法闘争など)そして実力行使へと傾斜していった。交渉相手は国鉄当局であっても、実際には対政府的性格を持ち、きわめて政治的性格を持たざるを得なかった。
 49年の場合は、中闘は東京でハンガー・ストライキを行った。50年1月の中央委員会では、合法闘争の枠を広げる必要性についての論議が行われ、最悪の事態に備えて第二中闘を組織する方針が出された。51年は、別に機関車労組(機労)が結成され、以後公労法上、交渉単位制が問題となるが、それは別としても、国労は11月、「実力行使宣言」を発し、座込み指令と一斉休暇の準備指令を出した。結果として、行われたのは座込みだけであった。52年は、初めて順法闘争が行われた。国労は「運転保安規整運動」、機労は「運転事故絶滅最強化運動」と名づけていた。また、一斉休暇闘争が行われた。だが、52年1月には、国労三役の解雇=首切り処分が発令された。
 53(昭和28)年から56年の賃金闘争では、一層、実力行使が強化された。これには、52年に公労法が改定され、国鉄、専売だけでなく、電電公社、郵政、林野、印刷、造幣、アルコール専売職員も適用対象になり(3公社5現業)、53年10月、3公社5現業の組合により、公共企業体等労働関係法適用労組協議会(公労協)が結成されたことが力となった。そして実力行使の強化とともに、処分・団交拒否問題が発生した。57年の闘争で発生した三役解雇処分の場合、国労は三役の職務権限執行を停止し、委員長代理(岩井章)を選出したので団交拒否問題は生じなかった。だが、53年の年末闘争に対する18名の解雇処分が翌年発表され、54年5月の中央委員会で、被解雇者を役員に選出さするに及び、国鉄当局は公労法4条3項を理由に団交交渉を通告した。国労は、仲裁委員会に不当労働行為の申立を行い、東京地裁に仮処分申請を行った。この場合は、東京地裁の和解案が示され、「話し合い」という名目での事実上の団交再開で決着した。だが、この団交拒否問題は、57年の藤林斡旋案を経て、やがてILO条約批准闘争に発展していった。

続く

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 国鉄労働組合史 10 | トップ | 国鉄労働組合史 12 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国鉄労働組合史」カテゴリの最新記事