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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃
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第五節 国鉄の独自再建案と
地方本部交通線廃止反対闘争一 国鉄の経営改善計画の修正
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├○ 三 地方交通線の廃止計画と廃止反対闘争│
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特定地方交通線の廃止
全国各地の地方交通線が国鉄経営から分離されていった時期は、第二臨調が発足し、国鉄改革の方向を定めていった時と重なっていた。第二臨調の基本答申の国鉄改革の方向は、国鉄が経営するのは鉄道特性の発揮できる分野に特化すべきだということであるから、地方交通線の廃止は促進する方針であった。さらに、国鉄再建監理委員会の第一次緊急提言(83年8月2日)および第二次緊急提言(84年8月10日)のいずれも、地方交通線を国鉄経営から分離し、バス転換、第三セクター転換、私鉄への譲渡の早期実施を強調していた。国鉄の「経営改善計画の変更」についての監理委員会の意見も、予定どおりの地方交通線対策の実行を求めていた。
こうしたなかで、特定地方交通線の廃止反対運動もあって、地元との協議は最初の1、2年はバス転換等がすすまなかったが、84年、85年になって急速に協議が整い、バス転換または第三セクター転換等が決定しいった。85年7月末現在で転換を完了した線は30線530.5キロであり、転換の方向づけを決定した線は7線137線キロとなった。
ところが、85年1月10日に国鉄独自再建案として「経営改革のための基本方策」が発表されたが、そこでの地方交通線対策として次のような新方針を打ち出したのである。すなわち、今後86年度末までに「すべての特定地方交通線の転換をめざして取り組むとともに特定地方交通線以外の存続地方交通線について、より効率化を図るため89年度末までに、個別に国鉄全額出資による株式会社を設立し、それぞれの経営理念のもと地域の実情に適合した運営を行うこととする。その際、線区の性格、輸送実績等を考慮して20線区は当面直営とし、残る70線区を株式会社とする」とした。この案を批判した監理委員会は、赤字地方交通線の一律切り捨ては知恵がない、と述べた。この見解はそれまでの監理委員会の提言内容とは異なり、何らかの形で地方交通線を国鉄に残すことを示唆していた。
第二次特定地方交通線の廃止は82年11月に運輸大臣へ承認申請を行ったが、第二次特定地方交通線の闘いについて、国労は83年度の運動方針で次のように決定した。
① 第二次廃止予定線の闘いは、第一次予定線での闘いの教を基礎にし、第一次と第二次の結合した闘いを組織する。
② 知事の意見書は第一次の場合軽視されたので、これを出させないよう全力をあげる。
③ 協議会設置を徹底的に返上させるよう自治体に要請する。
④ 地方線廃止反対の闘いは、臨調答申にその基本があることを確認し、組織活動、教宣活動を強化する。
⑤ 第二次廃止予定宣伝の関係自治体の反対意見書のとりつけを『分割・民営化』反対の意見書とセットにして進める。
⑥ 総評が提起している1万カ所対話集会との結合をはかるとともに、随時対話集会、セミナーなどの開催を積極的に進める。
⑦ 国会請願、抗議行動など闘いの節々で中央行動を展開する。
国労は84年4月3日、「国民のための国鉄を再建する全国交流集会」を開いており、集会では運賃値上げ反対、地方交通線廃止反対、国鉄分割・民営化反対を掲げていた。集会には、特定地方交通線の第一次、第二次廃止対象線区で闘っている代表を中心に200人が参加した。交流会では、廃止線区に選定されて以来の闘いの経験が報告された。
木原線の代表は、「乗車運動で地方協議会は三度目の協議中断に入っている。しかし当局は、第三セクター・バス転換への計画を進めており、楽観できない。幅広い参加で問題の本質をストレートに言えないこともあり、社・共など政党の独自宣伝が必要だ」と問題提起した。倉吉線の代表は、「乗車運動のできない線区もある。守る会会長に市長を置くなど自治体との連携が重要だ。白糠線など既成事実が作られると、あきらめも出てくる。二次線を遅らせるためにも一次線はがんばるべきだ」と強調した。あるいは、「地域の教育路線と位置付け運動を強化したい」と決意を述べる代表もいた。このほか、「バス転換を決められたが、これまでの運動は住民中心の訴えだったため国鉄・政府の本質を暴露しきれなかった」(高砂線)との反省も出された。
すでに述べたように、国鉄当局は82年11月に「第二次特定地方交通線」の廃止申請を運輸省に提出した。運輸省は関係17道県知事に意見書の提出を求めていた。各道県は第一次の時に無視された経緯があるため、意見書の提出に反対の姿勢を堅持していた。しかし、政治的圧力によって5月27日の福岡県を最後に、全関係知事が意見書を提出するに至った。運輸省は意見書にもとづき現地調査と自治体等からのヒヤリングを6月上旬に終え、22日に承認保留の6線区(岩泉線、名松線、天北線、名寄線、池北線、標津線)を除き、廃止を承認した。
また、第一次特定地方交通線のうち輸送密度が2000人を越えていた木原線、若桜線、信楽線の三線60.9キロは協議を中断していたが、86年7月末現在、この三線と角館線以外の第一次特定地方交通線はすべてバス、第三セクター、地方鉄道への転換が完了した(角館線は86年11月1日に第三セクターに転換した)。
国労の84年度運動方針には真岡線などで実施された「費用・便益計算」の調査結果をもとに、廃止基準の見直し要求を進めるという新しい方針が盛り込まれていた。しかし、この時期は国労に対する攻撃が激しさを増し、地域での取り組みに十分な力を発揮できなかったことも確かである。第二次特定地方交通線の協議会開催について、頑強に開催反対を貫いてきた北海道も協議会発足を余儀なくされた線区が幾つか出た。
85年度の国労の運動方針は、国労の地域闘争の問題点として、次のような指摘をしていた。
「地域との共闘と国労の職場の闘いが正しく結合されていない 面がある。地域共闘依存型か企業内 だけの運動型か、いずれかに偏向し、地域共闘の仲間から〝国労は何をするのか、何をしてくれるのか?という疑問も出されている。地域住民や利用者と国鉄労働者の要求の統一についての取り組みが不十分なことから、合理化反対闘争と国鉄の民主的再建闘争がかたく結びあってすすめられない。そこには、企業主義が根強く残っている」。
国鉄は、第三次特定地方交通線廃止については、12線338.9キロを選定し、86年4月7日運輸大臣に承認申請を行った。
続く
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