国鉄末期からJR発足当初にカートレインなるものが運転された時期がありました、自家用車を寝台列車と一緒に輸送するもので、目的地に着いてすぐに自分の車を利用できるメリットがありました。
昭和60年に、東京(汐留)から北九州(東小倉)まで運転されたのが最初で、バブル期には、東京・名古屋~広島・九州間、東京~北海道間、北海道相互で運行されましたが、現在はカートレインどころか夜行列車すら風前の灯火であり定期運行を続けているのは、サンライズ瀬戸・出雲だけとなってしまいました。
カートレイン 画像wikipedia
特に九州向けのカートレインの場合、JR九州の取り分が極端に少ないという事情もあって運行には積極的ではなかったといわれています。
ニーズよりも会社間の事情が反映されたことですが、こうした点がもう少しきちんと整理して、きちんと育てれば、需要があった列車であっただけに、列車を育てられなかったという反省は行われるべきかもしれません。
さて、今回はカートレインの話ではなく、さらに遡ること20年ほど前に企画された自家用車輸送のお話です。
昭和42年10月14日から国鉄では自家用車を鉄道で運ぶ「オートエクスプレス」という貨物列車を運転することとなりました。
当時はまだ東名高速道路が開通していなかったこともあり、それなりに需要はあったそうです。
昭和42年の時刻表、寝台電車のニュースはありますが、オートエクスプレスの話はどこにも書いていません。(^^♪
新宿駅と梅小路駅(現在の京都貨物駅)間を結ぶ貨物列車で、自動車専用輸送のク5000を利用して輸送されたそうで、1両あたり上下段で8台を乗せる2両編成としていたそうで、レンタカーとプロパン車(タクシー等)は輸送出来なかったそうです。
自動車輸送用貨車 ク5000
ちなみに、自動車の航走料金は片道6,700円、往復12,000円だそうで、新幹線の2等料金が特急料金+運賃で2,960円ですからかなり割高とも言えなくもありません。
また、「オートエクスプレス」は、貨物輸送ですので、京都では梅小路駅に到着でした、ただし自動車を京都駅まで回送してくれるサービスを行っていたそうです。
また、このオートエクスプレスは後年のカートレインのように自動車と乗客が一緒に移動できるわけではなく乗客は別途新幹線などで移動する必要があったと言われています。
それでも、東名高速道路が開通する前でしたのでそれなりの需要はあったようです。
その後、東名高速が開業後はわざわざ列車に載せて車を運ぶ必要性が薄れてきたため自然消滅的に消えていったと言われています。
なお、JR貨物発足後も全く同じような「マイカー・フレート」を1987年から夏期に期間を限定して運転されたようですが、利用は振るわなかったようで1989年を最後に運転を取りやめています。
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