国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

ながら号にまつわるお話 第2夜 又吉車掌奮戦記

2006-06-15 23:13:48 | 国鉄思いで夜話
現在でこそ、特急車両を使って快適な移動を約束された「ながら」号であるが、今から40年程前のながら号の前身、大阪行き普通列車145列車は、人生の縮図を載せたそんな列車だったそうな。

昭和43年頃の鉄道ジャーナルを紐解いてみると、列車ルポが載っているのだが、これを見ると本当に貧しかった時代の日本が見えてくるような気がする。

本の内容を直接転載するわけにも行かないし、もちろん手元にその本がないので、記事の内容を思い出しながら、フィクションの小説風に書いてみたい。

時代は、昭和40年。新幹線が開業して1年目。
戦争の痛手から立ち直ったとはいえ、まだまだ戦争の傷跡は所々に残されていた。
外貨も1$=360円の固定相場で、外貨持ち出し枠も制限されるなど、外国への旅行すら自由にいける時代ではなかった。
 いまでこそ、外国に出国するのさえ気軽にできる時代になってしまったが当時はそんな窮屈な時代であった。
 当時の列車は、1等車・2等車という言い方をしており1等は2等の2倍弱の料金を払うということで、1等車を利用できるのは極限られた階層ということになっていた。
 特に、東海道新幹線ができるまで、東海道を走った特急に連結された、パーラーカーには特急料金+パーラーカー料金が1等運賃とは別に必要で、今の貨幣価値に換算すると、大人一人が東京~大阪間を旅行すると、約5万円位になる。

 当然、そう言った車両に家族で乗れるようなセレブな人たちもおれば、その逆に、その日の生活にも困窮するような人たちもいる。
 そう言った人間模様を詰め込んだ、東京を23:30分に出発する145列車の物語である。
 最所にこの物語の主人公を紹介しておこう。主人公は車掌3年目の佐藤又吉、彼が見た人間模様である。

 佐藤又吉は、昭和17年に東京で生まれた、戦災で父親を亡くしたため父親の顔は知らないままであった、又吉は3人兄弟の末っ子として生まれた、母は、土木作業などをやりながらも女手一つで3人の子供たちを育てあげた。又吉は、中学校を卒業すると母親に負担をかけたくない一心から国鉄を受験、駅員として採用されたが車掌に憧れ、数年後に試験を受験。
 見事試験にパスした又吉であった、新米車掌にとって、ローテーションは最大の関心ごとであったが、かなりきつい内容であった。当然又吉の勤務もローテーションが組まれており、7日に1度くらいの割合で、145列車の乗務が回ってくる。
 先輩車掌は、比較的軽めの勤務を選んでいるが、そこは新米車掌の悲しいところ、夜中出発、深夜帰着のダイヤばかりが続くそんな乗務ばかりである。

 特に、145列車はある意味人生の縮図列車であり、またこそ泥などの犯罪も多い列車であった。ベテラン車掌たちはできるだけこの乗務を逃れようとするのでどうしても新米車掌にその役が回ってくるというわけだ。

 さて、今日のお客さんの階層はどんなものかな??
 又吉は、それとなく様子を探ると.少しあやしげな3人の男がデッキに・・・・
 又吉が声をかけると、その男たちは車掌から避けるように歩き出すのであった。

さて、この続きはまた明日にでも。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ながら号のお話 | トップ | 第3夜 又吉車掌奮戦記2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国鉄思いで夜話」カテゴリの最新記事