国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

国鉄事故史 紫雲丸事故

2007-12-27 00:34:10 | 国鉄思いで夜話
紫雲丸と聞いてピンと来る人は少ないかもしれないが、今から50年以上前の昭和30年5月11日に発生した、海難事故のことは知られているのではないだろうか。
この事故が契機となって、瀬戸大橋の建設が具体的に議論されるようになったことを知っておいて頂きたいと思います。

紫雲丸という名称は、高松市にある紫雲山にちなむと言われているが、この船名自体が就航から僅か9年の間に5回も事故を起こし2度の沈没を経て、瀬戸丸と改称されてから1966年の廃船までの11年間は無事故であったと言うのも不思議なもので、名前が船の命運まで変えてしまうのかと思うと不思議な気がしてきます。

紫雲という言葉を国語辞典でひいてみますと、

紫色の雲。仏教で、念仏を行う者が死ぬとき、仏が乗って来迎するとされる雲

ということで、あまり縁起のよい名前とはいえません。
また、紫雲が、死運につながるということでよくないと就航当初からも言われていました、まさに言霊の力なのか?と思わせますよね。

特に5回目の事故が、昭和30年5月の事故で、このときは修学旅行中の小学生を中心に168名もの死者を出しており、まさに死者の船になってしまいました。

言葉そして、名前というものにも見えない力があるのかもしれないですね。

参考までに、昭和30年5月11日の出港から衝突までの経緯をwikipediaから引用しましたのでご覧ください。


詳細は、wikipediaより転載しましたのでご覧にください。

出港から衝突まで
5月11日瀬戸内海沿岸の海上では濃霧警報が発令され、場合によっては視界50m以下の見込みとされていた。

午前6時40分、ブリッジ前方から視界を確認した時点で4~500m先の漁船が目視できたため、紫雲丸船長中村正雄は出航を決定。同刻、乗客781人乗員60人を乗せて上り8便「紫雲丸」は高松港を出航した。

それより溯ること6時10分、大型貨車運航船「第三宇高丸」(1,282総トン)は下り153便として宇野港を出航した。出航時、天候は曇りで霧も風も無く、波浪も穏やかであった。

6時20分過ぎ、高松気象台発表の濃霧警報が無線電話で伝えられ、マリンレーダーをスタンバイする。

6時35分過ぎ、視界400~500mになり、宇高丸は霧中信号の発信を開始。

6時51分頃、霧が激しくなり視界は100m程となったが、宇高丸主席運転士がレーダー上2500m船首方向指示線上に紫雲丸の船影を確認。このとき宇高丸は海上衝突予防法にのっとり針路を140度とした。

6時53分、1700mに接近し、紫雲丸の姿は依然として目視できないままだったが、同船の霧中汽笛音が左舷方向から聞こえたため、東西方向に距離が広がったと判断し宇高丸は全速力で航行を継続した。

6時56分、宇高丸左舷30度100m前方に突如左へ回頭する紫雲丸を確認(この紫雲丸の左転の理由は、後に海難審判で最大の焦点の一つとなる)。

宇高丸船長三宅実は直ちに機関停止、左舵一杯を指示したが、5度ほど回頭したところで宇高丸の船首が紫雲丸右舷船尾付近に激突した。

損害と救難活動
第三宇高丸の船首は、紫雲丸右舷機関室を70度の角度で直撃した。宇高丸の直撃を受けた右舷機関室はエンジンルームの復水機と主配電源装置が爆発した。電源が落ちたことで直ちに船内は停電し、全電灯が消え暗闇となった。同時に高さ4.5m、最大幅3.2m、船内3.5mの左舷大破口から機関室へ膨大な浸水が始まった。沈没の危険をすぐに把握した紫雲丸船長中村正雄は総員退去の指示を出し、機関室の水密扉閉鎖を指示した。

機関室の水密扉は電源が落ちているために作動せず、手動で閉鎖することを試みたが、既に船尾が沈没状態となっているため断念した。暗闇と左舷に急速に傾斜する船内で客室は混乱を極め、乗客が右舷に殺到、体力の無い児童が多数船内に取り残される事態となった。

宇高丸側は衝突後、損傷状況から直ちに紫雲丸の沈没を予見した。紫雲丸機関室への浸水を防ぐためと、避難する船客の移乗を図るために左舵一杯に取ったまま機関を全速前進として紫雲丸を押し続け、浸水の緩和を懸命に試みた。

乗客は次々に宇高丸に逃げたが、船内には多数の児童が残されていため、引率の教員の中には、宇高丸に一旦避難した後、再び船内に戻り犠牲となった人もいた。児童は修学旅行の途中で、土産等を持っていたため荷物を探すなどして逃げ遅れることが、被害を大きくしたと言われている。また、事故直後に撮影された報道写真を巡って「人命救助と報道」について論争が起きる一幕もあった。

紫雲丸は衝突から数分後の7時2分頃、乗務員等の懸命の作業の甲斐なく左舷に横転し沈没した。その際、中村正雄紫雲丸船長は、旧船員法12条にあった通称船長の最後離船と呼ばれる条文に従い、最後まで避難活動を指示しながら、船と共に海中に沈んだ。実は船長の“最後離船”は本来“船長は全乗客の降船、全貨物の陸揚げを確認した後に降りよ”であり“船と運命を共にせよ”ではないのだが、船長という職務の持つ職責の重さや責任感、使命感等から“船長が犠牲者(乗客)を残して下船するわけにはいかない”と船と運命を共にすることが当たり前であるような認識が船舶運行者の間に色濃くあったのも事実である。

この事故での犠牲者は168名に上り、うち児童の犠牲者は100名を数えた。現場では次々と児童の遺体が搬出されたが、その様子はあまりにも凄惨で、搬出活動にあたった者の多くが長らくその状況を語ることができないほどであった。

国鉄があった時代昭和30年前半
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3 コメント

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Unknown (やまちゃん)
2008-02-12 12:49:42
又、更新ないですね!調べる様な事柄より、普通の書き込みで宜しいんですけど…
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Unknown (blackcat)
2008-03-15 20:40:45
すみません、ほんと。

websiteの更新ばかり力が入ってるんですよ。

というか、見た目はほとんど変わっていないように見えますけどね。(-_-;)

平成4年から19年までを一気に増やしたら、逆に内容が多すぎるのと、明治~昭和62年までについても検証を行なっていると漏れている個所とか誤りが多数見つかってそちらのメンテに追われております。m(__)m
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職名準用 (五郎八)
2008-04-27 01:49:49
紫雲丸のN村船長は、実は本当の船長ではなく、一等運転士だったそうです。
本物の船長が休憩時間の為、一等運転士のN村氏が職名準用により、「当務船長」として指揮を執っていたそうですね。

あれから半世紀以上、お亡くなりにならてた方々のご冥福と海の安全を願います。
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