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BLOG oba~chan 2004

goo'BLOG obasan 2004-08-10
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江戸歴史散歩と上野界わい

2007年11月25日 | Weblog
西郷像前集合江戸歴史散歩「上野恩賜公園の界隈」2007.11.24

→彰義隊の墓→天海僧正毛髪塔→清水観音堂→秋色桜→
黒門跡→上野大仏→時鐘→上野東照宮→寛永寺根本中堂跡=竹の台
→ボードワン博士像→旧因州池田屋敷表門→両大師
→旧本坊黒門→殉死者の墓→寒松院→巌有院勅額門
→現寛永寺根本中堂→芋坂→羽二重団子→寛永寺御隠殿跡
→常憲院霊廟勅額門→子規庵内部見学→八二稲荷→根岸三平堂前
→笹の雪前→庚申塚(根岸小学校)→鶯谷駅前解散




四代将軍家綱霊廟(重要文化財)
東京国立博物館の裏手に、
四代家綱(院号厳有院)、五代網吉(常憲院)、
八代吉宗(有徳院)、十代家治(浚明院)、
十一代家斉(愼徳院)、十三代家定(温恭院)の6代徳川将軍の霊廟。
青銅製で高さ3メートルの宝塔に祀られている。
勅額門、水盤舎、唐門とともに重要文化財に指定。 

東叡山寛永寺
天台宗の関東総本山で、
1625年天海僧正により建立。
創建,江戸城の鬼門を守る祈願所であった、
芝増上寺とともに将軍家の菩提所となった。

現在の本堂は、明治12年に天海僧正ゆかりの地
川越(埼玉県)の喜多院から移築された
薬師堂で寛永15年(1638)の建造物。
徳川家の菩提寺として長らく栄華を誇ったが、
1868年彰義隊の戦争で、ほとんどを焼失。
太平洋戦争では、被害がなかったので、
明治以降の建物が
残っているが、日本人同士の争いの
上野戦争で江戸の文化財が
焼失してしまったのがなんとも、ザンネンなことです。。

新坂を下りて根岸の柳かな子規(貝坂)
鶯谷の由来
谷中初音町あたりだったが、根岸の里も藪や林が多く
江戸の訛りの鶯の名所だった。
画家「尾形光琳」の弟、尾形乾山は、
輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り
「入谷乾山」と呼ばれた。
そして、京の鶯を放って根岸名物にした。
乾山の墓も善養寺(巣鴨移転)あった。
昭和7年頃まで、善養寺町、
鶯谷町の町名も存在していたが今はない。
上野駅から鶯谷駅の新坂の下まで、現在上野7丁目である。


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