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入谷の朝顔と入谷乾山

2008年07月11日 | Weblog

        
        狭い「入谷鬼子母神」境内には誰もいませんでした。

       尾形乾山墓碑(入谷乾山・乾山深省蹟)
尾形光琳の弟。1662年京都の呉服商の三男として生まれた。
京焼史上最高の名人、京の乾(北西)にあたる鳴滝に窯を開き、
乾山と号した。深省の別号もあり。
画業のほか、書.茶をよくし、特に作陶は有名で、
輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き、
その作品は「入谷乾山」と呼ばれた。また、輪王寺宮の命によって
京の鶯をこの辺に多く放って根岸の名物にしたのも乾山。
光琳の画風を慕う酒井抱一によって、文政六年、
顕彰碑が建てられた。
入谷交差点の一隅に「入谷乾山窯元碑」がある。
たしか、「あさがおの碑」もあったが、昭和通りは震災後に広がったので、
戦後になってから新しく建てたのかも知れません。

    鶯谷の由来
元々鶯谷とは谷中初音町(今の谷中三.五丁目)辺りを言ったが、
根岸の里も藪や叢林が多く鶯の名所でもあった。
ここへ上野の輪王寺宮が、京都からたくさんの鶯を取り寄せ放ち、
声の良い鶯が多く住みついたという。
江戸の鶯は訛(なまり)があるので、それを直す為だとのことだ。
寛永寺の座主は代々皇室から親王を迎えていたが、
京都の陶芸家で光琳派の画家尾形光琳の弟、
尾形乾山は、輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、
入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれ著名。
輪王寺宮の命によって京の鶯をこの辺に多く放って根岸名物にしたのも乾山。
入谷交差点の一隅に「入谷乾山窯元碑」がある。
乾山のお墓は、我が母校の忍岡中学校の下にあった善養寺にあったが、
関東大震災後に善養寺は巣鴨に移転した。
「とげぬき地蔵の高岩寺」は、それ以前に巣鴨に移転していました。

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