栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は冬の部から一首、
胡講
町なみの御神燈をは鯛をつる漁の火とも見よゑひす講
この胡講は広島の胡子神社の今でいう胡子大祭と思われる。しかしずっと広島に住んでいても「町なみの御神燈」がどんな情景だったのか想像するのは難しい。なお、歴史的仮名づかいは「えびす」であるが、当て字で「恵」の字を用いたこともあって、ゑびすの表記も多数見られる。ヱビスビールも、「惠比壽麦酒」という漢字が先で、それによって恵比寿という駅名、地名が誕生し、カタカナ表記はそのあとだったようだ。狂歌家の風には画賛の部にえびす様の絵を詠んだ歌がある。
胡の画賛に
此神に追ひつくものはあら磯やたすきはつさぬ翁のいとなみ
貞国の歌に限らず、えびす様を詠んだ狂歌は鯛を釣る姿がベースになっている。しかし、子供の頃から広島のえびす講には何度も出かけたけれど、商売繁盛はあっても磯の香りを感じたことはなかった。最近リニューアルされた胡子神社の公式サイトには、
「胡子神社の御祭神は蛭子(ひるこ)神・事代主神・大江広元公(毛利家の始祖)の三柱が三位一体となったえびす神としてお祀りされ、商いを営む人だけでなく、福の神として多くの人々に崇敬されております。」
とあり、大江広元公が入っている分えびす色が三分の二なのかなと思ったりもする。明治33年「広島繁昌記 」には、恵美須神社の項に次のような記述がある。
「胡町にあり事代主神を祭る、当社の起りを尋ぬるに毛利元就吉田の庄にありし時同地に其の祖大江広元を祭りし像あり、広島に移城するに及びて何故にか取残されけるを里人見て蛭子神とのみ信じけるが(中略)正則即ち吉田の長に命じ広島に致さしむ(中略)左れば祭れる所の像は蛭子神にはあらず大江広元と知るべし」
毛利家の祖たる広元像を輝元公が放置したのはいかなる理由だったのか疑問も残るけれど、上記の胡子神社のサイトにも「胡子神社の起源が吉田にあるのは間違いありません。」とある。大正10年「広島県史. 第2編」にも恵美須神社の項に、
「像は方面無鬢、烏帽子狩衣を着け、叉手して立てる人物なり、之に依れば、当社の神、実は大江広元なるに似たり。」
(追記:「叉手して立」までは「秋長夜話」からの引用のようだ)こう念を押されるとやはり広元像なのだろう。吉田が出自というのも潮の香りがしない原因なのかもしれない。この像については胡子神社公式に記述がない。今も残っているのだろうか。
なお、この広島県史の神社の格付けを見ると、
一、官幣中社 (厳島神社)
二、国幣小社 (沼名前神社)
三、官祭招魂社 (廣島招魂社、福山招魂社)
四、縣社 (饒津神社、多家神社など)
五、郷社 (白神社、速谷神社、安神社、清神社など)
六、村社 (碇神社、比治山神社など地域の氏神様や八幡社)
七、無格社 (恵美須神社、住吉神社、愛宕神社、稲生神社など)
とある中で、恵美須神社は最後の無格社の所に出ている。広島の三大祭りの胡子神社と住吉神社が最低ランクなのは面白いところだ。
冒頭の貞国の歌に戻ると、いさり火に見立てた「町なみの御神燈」がやはり心に引っかかる。今年もあと十日で「えべっさん」がやってくる。どんな光景だったか、絵でも何でも再現してもらいたいものだ。
【追記】 「広島胡子神社由緒」に、上記の御神体の像はやはり原爆で焼失したとあった。また、鎌倉の大江広元像も失われたという記述があり、胡子神社サイドでも大江広元像という認識だったようだ。