「狂歌家の風」以外で栗本軒貞国の歌を見つけるのは中々難しいのだけど、今回は「徒然の友」にある「貞国のはなし」を書き出してみよう。
○貞国のはなし
廣島に貞國(ていこく)とて狂歌(きようか)の名人ありしが或日の夕方一人の狂歌師尋ね来りけるに折節(をりふし)貞國うゝた寝(ね)してありければ
貞國と名は廣島にはたばりて七つ半(なから)でねてをられけり
とよみたりしかば貞國目をさまして返しに
はづかしやいなかもめんのをりわるふ目をばそなたにあけて貰(もら)ふた
折悪う(タイミング悪く)寝ていた、というのを「田舎木綿の織り悪う」と詠んでいる。目をあける、も織物の縁語と思われるが具体的にどのように隙間をあけるのかよくわからない。「おまむき」の回でこの「徒然の友」から貞佐の仏護寺の歌を紹介したけれど、貞佐の歌もこの貞国の歌も出典等は書いてなく今のところ本人の作で間違いないという証拠は見つけられていない。そういう目で眺めるせいだろうか、この歌は狂歌家の風に収められている貞国の歌の作風とは少し違っているような気がする。「狂歌家の風」の歌は、歯切れがよく軽快で、広島人であれば少し早口でしゃべっているような印象を私は受ける。一方「徒然の友」の方は祖父の代の古い広島人がこの時期ならば「寒うなりましたの」とゆっくり目に話しかける、方言の語彙はなくても本来の広島弁のテンポだろうか。「狂歌家の風」には、こういうスローテンポの歌はあまり見られない。意図的にそういう歌を採らなかった可能性もあるのかもしれない。もちろん、こちらは贈答歌だからということはあるだろう。寝起きということもあるだろうか。それはともかく、貞佐であれば笠岡の生まれで様々な文化人との交流を経て後に広島に住んだことが知られているが、貞国については「広島の狂歌師」、しか見たことがない。ひょっとしたら東国の生まれではないかと思わせる言葉の使い方もないではなく、あるいは上方ではなく江戸を意識した作風だったとも考えられる。これは上方も江戸も狂歌をもう少し読んでから考えてみたい。
さて、この「徒然の友」は明治29年の刊で、味潟漁夫 (入沢八十二) 編とあるのだけれど、検索してもこれ以外の著作は出てこない。この本の後半には糸崎八幡宮や三次郡山家村の話が出ていて、備後国に詳しい人かもしれない。こちらも探してみたいと思う。
【追記】来訪者の歌にある「はたばり」の用例が「狂歌手なれの鏡」にあった。
寸長斎桃里の都へまからは必立よりねとあるに上京
せしかと逗留程なくて尋さる故かくいひ贈る 木端
君か方えゆきあはぬのは二三日ちよつとかりきのたひ衣ゆへ
かへし 桃里
おりあらは重ねてきませ旅衣はたはりもなき住居なれ共
とある「はたばり」は徒然の友の来訪者の歌では幅をきかせる、意気盛んというような意味合い、一方桃里の歌では住居の幅、広さを言っているものと思われる。この贈答歌のように衣や織物の縁語になり得るもので、この「はたばりて」をとらえて貞国が織物の縁語を並べた歌を返したということになる。