狂歌家の風には庚申信仰にからめた貞国の歌がある。庚申待については何となく知ってはいるが、他の狂歌を調べたら庚申堂に青面金剛と出てきてもピンと来ない。京都に住んでいた頃、二年坂の八坂庚申堂には行ったことがあるような気もするのだけど、なにせ四十年近く前のことで記憶がはっきりしない。貞国の歌について書く前に、どこか庚申信仰に触れる事ができる場所に行きたいと思った。そして調べてみると、隣町の可部に庚申神社があることがわかった。時々買い物に行く可部上市の次のバス停、可部中学校前から徒歩6分とグーグルに教えてもらった。これは行かない手はない。今日は芸備線向原駅でサンフレッチェのイベントがあり、出発式を終えたディーゼル車両(芸備線は非電化につき電車ではなく、またこの時間は1両だけのため列車とも言えない)が近くを通過するのを見てからのスタート。1枚写真をのせておこう。
写真を撮り終わって時計を見たら13時20分、可部行のバスは30分後で、国道まで歩いた方が早そうだ。中島まで歩いて中島駅口13時55分ぐらいのバスに乗った。可部中学校前には程なくついて、牛丼屋を過ぎてカレー屋の手前で左に折れた。地図は頭の中に入っているつもりであった。
しかしながら、いつもの事とはいえ、山に入る道がわからない。山を取り巻くようにびっしり宅地化されていて、思っていたのとは違う風景であった。少しは土地勘がある場所だからと油断して、地図もプリントアウトしていない。とりあえずとこかから山に入ればわかるだろうと、登り口を見つけて山に入ってみた。一気に最初の坂を登ったら、目の前にはたっぷり花粉を蓄えた杉の木、こりゃあいけんと回れ右して地上を眺めたら、ここは既に可部バイパスのトンネルの出口で、南原ダムがずいぶん近く見えて、道路標識をデジカメで拡大すると南原峡の文字も見える。
これはさらに次のバス停の南原口付近まで来ているようだ。一気に登らずにきょろきょろしてたら杉の花粉を浴びずにすんだのに、我ながら愚かなことだ。可部中学校方向に引き返しながら、山に入れそうなところを探したら、墓地の先に道がありそうな無さそうな。墓地への道を入ってさらにその先の道を確認していたら、下の道を夫婦らしき二人連れが歩いていらっしゃる。バス通りを離れてから初めて見かける通行人で、ここを逃す訳にはいかない。ダッシュで追いついて道を尋ねたら、更に中学校方向に7軒先の路地を入れと教えていただいた。助かった。教えていただいたのは、可部7丁目と8丁目の間の道だった。
この坂を進むとすぐに石の鳥居が見えた。犬にほえられたけれど、ここは神社が見つかった嬉しさで犬にお邪魔しますと断ってから進んだ。目的地に着けるのであれば、多少迷っても仕方がないではないか。私の場合、必要経費みたいなもんだ。
鳥居を過ぎると、さらに石段を登ったところに拝殿が見えた。
石段を登り切ると、拝殿の後ろに本殿があった。
そして、拝殿の前の燈籠には、「寛保二壬戌」の文字、埋もれていてまだ下に文字がありそうな気もする。寛保二年(1742)というと貞国が生まれる数年前だ。
そして本堂にお参り、ちょっとガラスの入った格子戸越しに覗かせてもらった三猿像、左が言わざるだろうか、暗くて腕があるのかどうか、よくわからない。
そして青面金剛像
この青面金剛は道教の神様、あるいはヴィシュヌ神が変化したともある。ネットでの説明を読んでも、三尸(さんし)を押さえる神ということ以外、いかなる神様なのかピンと来ないものがある。本殿右側面に説明板があった。
ここにある、「■手青面金剛」の最初の文字がわからない。腕の数ならば六に近いような字、しかし写真を見ると6本あるのかどうか、よくわからない。また、漢数字以外の可能性もあるのかもしれない。また、この山中に「申宮城」があるはずだが、どこから登るかもはっきりせず、それにまた杉の木に遭遇したらナンギなのでやめておくことにした。
ウイキペディアの庚申待の項の記述によると、仏教では青面金剛、神道では猿田彦とある。ここから近い下町屋には猿田彦神社があるそうで、するとこちらは元は仏教だったのかと考えていた。ところが実際お参りしてみると、鳥居から石段、燈籠、拝殿、本殿と造りは間違いなく神社であって、戦国時代も申宮であり燈籠も古いもので仏教から神道に変化したようには思えない。ウイキペディアの記述のように簡単に割り切れるものではなさそうだ。もっとも、庚申信仰は私にとっては身近なものではなく、まだまだ不勉強であるようだ。次に図書館に行ったら関連する書物を読んでみたい。しかしながら、青面金剛像を拝むことができて、狂歌については書いても差し支えないように思う。次の記事で書いてみたい。
帰りも犬にほえられたけれど、そのまま歩いて、途中買い物して可部上市15時47分のバスに乗った。果たして花粉のダメージがどれぐらいあるのか、今は少し目がかゆい程度だけれど、実際のところは明朝以降になってみないとわからない。
【追記】青面金剛が庚申待の本尊として流行したのは寛文年間あたりからとの記述があった。すると、元々は申宮という神社があり、そこへ青面金剛像が持ち込まれたという流れだろうか。