安佐南区の緑井、八木、安佐北区の可部東、三入、桐原(とげ)などで土砂災害があった日から、明日20日で4年になる。今回書きたいのはその前日、2014年8月19日の夜のことだ。この夜、土石流が発生する前に、人的被害を回避する手立てはなかったのだろうか。結論を言えば、広島市が気象庁からのファックスを見逃すなど不手際はあったものの、それがなくても早期避難につなげるのは難しかったと思う。ただ、将来同じことが起きた時に、危険を回避できる可能性はあるのではないかとも思う。そのあたりを、当日のツイートを見ながらふり返ってみたい。
我が家のある安佐北区深川地区は、4年前の土砂災害では地区の西端の尾和地区で1件の土石流が発生したけれど、うちはそこから1キロ東で強い雨雲の帯からはわずかに外れていたと思われる。19日のツイートを見ると20時前に雷が発生、20時半には大雨でBSが映らなくなった。そしてこの20時半の雨雲の様子を伝えた気象予報士の勝丸恭子さんのツイートをリツイートしている。画像を拝借。
本文は「帰宅途中で雨宿りの方も多いですよね。雨雲は北東へ移動中です。強弱はありますが、今降っている所はまだしばらく雨。雷が鳴っているうちは建物の中にいてもらいたいと思います。このラインの北東に当たる所はこれからザッとくる見通し。」とある。北東に傾いた強い雨雲の帯が北東に移動する、この意味を私は全く理解していなかった。
その後21時半ごろから経験したことが無いような強い雷鳴、雷光で22時過ぎには数分間停電もあった。雷が落ちるとかなり遠い感じなのに家が揺れるような衝撃があって、私は完全に雷に気を取られて大雨に頭が回らなかった。しかしその22時台には広島駅や西区福島町で冠水とのツイートをリツイートしていて、広島デルタも相当な雨量だったことがうかがえる。23時過ぎ、雷が少しおさまって静かになった。この隙に寝てしまうのが吉とツイートして、私は眠りについた。目が覚めたら大変なことになっているとは、思いもよらなかった。雨雲がもう少し東にずれていたらと思うとぞっとする。
私が寝た後の雨雲の様子を、土砂災害を特集した9月3日付の中国新聞の紙面から見てみよう。
(中国新聞2014年9月3日の紙面より)
日付が変わって20日の午前1時、2時、3時と雨雲はあまり動いて無いように見える。いや、そう見えるだけで勝丸さんのツイートにあったように雨雲は北東に動いていた。北東に傾いた強い雨雲の帯が北東にスライドして、同じ場所に強い雨が降り続いた。三入の雨量は一晩で250ミリを超えた。当然被害もこのライン上に集中した。
(同じく9月3日中国新聞より)
ここで一つ指摘しておきたいのは、テレビの報道は八木、緑井地区に集中したけれど、土石流の件数としては安佐北区の可部東、三入、桐原の方がかなり上回っている。4年ぶりにこの特集記事を見直して気付いたことで、意外だった。新聞の役割はまだまだ重要だと思う。今年7月の豪雨でも、自宅が浸水想定地域であることから洪水については随時情報収集してきたが、土砂災害についてはわからないことが多く、同じ高陽地区に住みながら口田南地区にどうして土砂が出たのかいまだによく理解していない。これからの報道に期待したい。話がそれた。
ここまで書いて、言いたいことはわかっていただけたのではないかと思うが、20時半の予報の通りに雨雲は流れて、同じところに強い雨が降り続いたということは、その時点で地域を限って注意喚起ができなかっただろうか。この4年前の時点では難しかったかもしれない。しかし、将来には自動的におおよその地域をあげて注意喚起するシステムを作れないだろうか、というのが今回一番言いたかったことだ。今年7月6日夕刻からの豪雨災害でも、5日から4年前と同じ250ミリの降雨が予想され記録的大雨の五文字は前日から言われていたにもかかわらず、避難指示を受けて実際に指定の避難所に避難した人の割合は広島市でわずか3、4パーセントという報道があった。中国地方で明日の朝までに250ミリとニュースで聞いても、山奥の雨がよー降るところじゃろと当地の事とは思わない。安佐北区全域に避難指示と出ても、自分のところは大丈夫と思ってしまう。難しいのは承知の上で、もっとピンポイントで危険を知らせるシステムを作ってほしいと思う。それは被害が広範囲に及んだ今年よりも4年前の方が実現の可能性があるような気もする。今年の災害における避難行動の検証はこれから始まると聞いている。もちろん我々の防災意識を高めるのが一つ、避難所の場所や環境など避難へのハードルを下げるというのが二つ目、そしてもうひとつ、避難情報の精度を上げることが重要だと思う。広範囲に素早く避難勧告・指示を出せばよいというものではないだろう。中国新聞の特集の時系列をみると、避難勧告、指示が出たのは20日の午前4時以降ですでに土石流が発生したあとのところが多かったと思われる。それに比べると今年は遅くはなかったと思うが、避難行動にはつながらなかった。大きな課題が残っている。
4年前の災害報道では、阿武山という山の名はあまりニュースに乗らなかった。必要ない情報だったのかもしれない。もう一度9月3日の中国新聞であるが、阿武山麓を横断するような被害の写真が載っていて、はっとして紙面を残しておいたのが今回役立った。それも紹介しておきたい。
(同じく9月3日中国新聞、一番上の切れている文字は八木8丁目)
翌8月20日の朝は6時過ぎ、外で何か聞こえて目が覚めた。2階の自室からは地元の町内会よりも丘の上の亀崎地区の放送がよく聞こえる。寝ぼけた頭で何事かなと思っていたら避難勧告という言葉が耳に入って飛び起きた。土砂災害以降、避難勧告は安売り気味に出るようになったけれど、この時は身近なものではなかった。6時半を過ぎてヘリの音も聞こえるようになった。ネットで出てくるのは根谷川の氾濫、そしてテレビでは7時ごろ八木、山本、可部東の土砂崩れを伝え、9時には緑井で家10軒消失の未確認情報と次第に事の深刻さが伝わって来た。なすすべもなく、テレビを呆然と見つめるだけだった。
今までであれば百年に一度あるかないかという土砂災害が四年間に二度、しかもごく近い地域で起きたのは本当に悲しいことだった。最近の気候を考えるとこれからも油断できない。次は自分のところと思っておいた方がいいのだろう。
土石流言葉は聞けど目の先の八木緑井のことと思はず
(安佐北区深川、JR下深川駅より阿武山を望む、2014年8月30日撮影)