栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は哀傷の部より一首
師の十三回忌に
なら坂やこの手をつけは塚の前むかしのけふかおもひ出さるゝ
貞国の師は芥川貞佐、おまむきの回にも書いたように墓は仏護寺、今の本願寺広島別院にあった(今は失われているそうだ)。だから、なら坂とあっても奈良は無関係だ。これもしばらくわからなかったのだが、意外なところにヒントがあった。狂歌家の風には、なら坂が出てくる歌がもう一首ある。
疑恋
書てくれたきしやうもあてになら坂やこの手の外ににせかけた筆
別々に読んだ時このなら坂は「あてにならぬ」と言いたいだけと思っていた。並べてみると何のことはない、「この手」に続いている。「にせかけた」は「二世かけた」それで疑恋となるわけだ。見せかける、という意味もあるのかどうか、よくわからない。奈良坂の話を続けよう。ここでは「この手」を導いた奈良坂、元は児手柏(このてがしわ)に続いている。謡曲「百萬」の一節、
「奈良坂の、このてがしはのふた面、とにもかくにも 侫人の」
さらにその本歌は万葉集巻十六、ここは初句が奈良山になっている。
謗侫人歌一首
奈良山乃 兒手柏之 両面 左毛右毛 侫人之友
(ならやまの このてがしはの ふたおもて とにもかくにも ねぢけびとのとも)
前回、誓紙のところで引用した好色一代男の奈良の話でも冒頭に「奈良坂や、このたびは」と奈良坂が「この」と続いていた。しかし、狂歌家の風以外の三例は、いずれも奈良が現場であるのに対して、貞国の二首は奈良は全く関係なく、枕詞のように使われている。もちろん辞書をみても奈良坂という枕詞はのっていない。子規の「久方のアメリカ人」と同じような匂いもしなくはない。もっとも狂歌ではわりとよくある技巧かもしれないとも思う。私も、なら坂がこの手にかかることがわかった後は、違和感なくこの二首を眺めることができた。他の狂歌の用例を探してみたい。
【追記】萬載狂歌集に、「なら坂」が「この手」に続く歌があった。
柏餅 山手白人
なら坂やこの手にもちし柏もちうらおもてよりさすりてぞくふ
しかしこの歌は柏餅、うらおもてと上述の元歌の面影を残していて、本歌取りの範囲内だろう。貞国の用法とは違うようだ。