「狂歌桃のなかれ」(pdfファイル)をネット上で見つけて読み始めたら、いきなりタイトルの柳縁斎貞国が出てきた。この表記を見るのは初めてだった。「狂歌桃のなかれ」は桃縁斎貞佐の弟子、三次の星流舎貞石編、寛政五年(1793)刊とある。口絵の貞佐の歌に続いて石丈薗芝郷の序文があり、本編はまず貞石の歳旦の歌があり、その次の歌、
広島 柳縁斎貞国
いゝいつる言の葉もみな和歌めくや今朝は見るもの聞く物につれ
雑の歌にも、
芸陽柳縁斎師に始てまみえし折から 柳芽
今よりもむかし男になれそめてやさしいことのはなし聞はや
返し 貞国
昔男とはの給へとあいそめてきりやうのなひに恋さめやせん
とあり、栗本軒の前貞国は柳縁斎と名乗ったことがわかる。詞書に芸陽とある。この「狂歌桃のなかれ」は編者である貞石が三次、その他にも庄原、東城など備北地区の門人が名を連ねている。備北から広島方向を眺めたニュアンスが入っているのではないかと考える。また、寛政二年に貞国が佐伯郡大野村に人丸神社を勧請(松原丹宮代扣書)した三年後の撰であり大野の門人の名前も見える。すでに別鴉郷連中の動きも活発になっていた頃と推測される。このあと貞国は芝山持豊卿から栗本軒の軒号をいただいて享保元年(1801)に「狂歌家の風」を刊行、撰者柳園井蛙の序文には、
「爰に吾師貞国 翁わかふより此道にさとく秀て先師桃翁の本に古今八雲人丸等の 奥秘をつたへ終に正風幽玄のさかいに至り」
とある。一方、今読んでいる玉雲斎貞右撰「狂歌玉雲集」寛政二年(1790)の序には、
「それより我師安芸国桃縁斎の翁先師より伝来の秘事口決古今八雲の秘書及び勝まけの拂子文台を伝え請たまへは玉雲翁第三の詞宗たりやつかれかくたいせちの品々を授り」
とある。貞右は玉雲翁信海、貞柳、貞佐と続く玉雲翁四世という認識を自分で持っていたようだ。序文を比較しただけならば、貞右が先に良い物をもらった印象だけど、家の風の序文は栗本軒に重点が置かれていて、貞佐との関係はこの一節だけで詳しく語られてはいない。なお、貞右の玉雲斎という号は、貞佐ではなく「やんことなきおほん方より」とある。しかしそれならば、貞柳からの「柳門」は誰が継いだのだろうか。木端が柳門二世を名乗ったというのは見かけたけれど、「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」によると、柳門は貞国から周防の栗陰軒貞六に伝えられたという。玖珂にある貞六の碑には、
「柳門四世栗陰軒貞六翁之塔九十四歳」
とあるようだ。貞柳→貞佐→貞国→貞六、というのが貞国や貞六の言い分と思われる。もちろん異説もある。ネット上で検索しても、柳門は木端の栗派と貞右の丸派に二分したと出てくる。狂歌の系譜に貞国や貞六は見当たらない。また、柳井の本には貞佐と貞国の間に貞右が入る可能性に言及しているけれど、今のところそんな感じは見られない。「狂歌桃のなかれ」庄原の連雲斎貞桟の跋文には、
「星流舎先生狂歌をこのみ近里遠郷の風人より消息の端にかいつけ来ぬる歌及ひ社中の詠をあつめ壱冊となし桃の流れと名つけけるもりうもんをこひしたふことのなれは宜なりけらし」
柳門を恋い慕って桃の流れと名付けた、とある。「りうもんをこひしたふ」とはいかなる意識、距離感なのか。柳門イコール「桃の流れ」ということなのか、あるいは柳門は三次庄原から見て広島よりもっと遠いところにあるということなのか。もっとも何が伝えられたのかも私にはよくわかっていない。今はこのあたりでやめておこう。