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仕事帰りに一杯ひっかけながら文学をグダグダと語る会―太宰治「駆込み訴え」・雑感

2017-09-02 | 文学系
 

「ほんとうに、その人は、生まれてこなかったほうが、よかった」

あらためて読むと、凄い言葉だ。
これは、かのイエス・キリストが「最後の晩餐」で暗にユダに差し向けた言葉だ。
しっかりと、福音書(新約聖書)のマタイ伝とルカ伝にも書かれている。
それにしても、これが「赦し」を説いた神の子イエスの言葉だとは、とても思えない。
本当にイエスはそんなことを言ったのだろうか。
マタイやルカがユダを憎むばかりに、そう書いてしまっただけではないか。
いやいや、イエスだって人間だ。
無限の「赦し」なんて為しえないんじゃない?
いやいや、神にしかなしえない「赦し」を人間でもできるといったのがイエスじゃないか。
この言葉を神の子の言葉とするか、人間の言葉とするか。
いずれにせよ、この言葉がユダの裏切りを引き起こし、そしてイエスは歴史的な宗教者としてその名を歴史に残した。

今回の課題図書・「駆込み訴え」で太宰治が描いたのは、人間イエスを愛したユダの愛憎であり、嫉妬であり、ボーイズラブだ。
人間の、いや男の嫉妬の浅ましさは、かくも屈折した怨念に至るのか。

私は今まであの人を、どんなにこっそり庇かばってあげたか。誰も、ご存じ無いのです。あの人ご自身だって、それに気がついていないのだ。いや、あの人は知っているのだ。ちゃんと知っています。知っているからこそ、尚更あの人は私を意地悪く軽蔑けいべつするのだ。あの人は傲慢ごうまんだ。

「あの人」(イエス)の奇跡は、すべて「私」(ユダ)が仕込んでやったものだ。
「二匹の魚と五切れのパン」を「五千人」分に増やしたという奇跡。
クリスチャン系の学校に通ったことのある参加者によれば、この場面はわずかなパンと魚を少しずつ分け合ったと教えられるそうだ。
でも、五千人というのが大げさな数字だとしても、二匹の魚と五切れのパンをどうやって分けるのか。
これって、商才に長けたユダが裏で買い集めたんじゃない?
じゃあ、水をぶどう酒に変えたっていう奇跡も、手品よろしくユダが仕込んだもの?
湖上を歩いた奇跡も、ユダが水面下に潜って必死に支えていたんじゃないの?
そんな風に想像すると、けっこう笑える。

でも、そんなユダの愛の献身をイエスは知っていながら、いや知っているからこそ「私」を意地悪く軽蔑した、とユダは受け取った。
愛の歪んだ憎しみへの反転。
ストーカーって、こんな感じなんだろうね。
どんな理不尽な修行も受け入れられる師弟愛って、この愛情に近いものもあるよね。
でも、この「私」は、「あの人」と同い年であることにこだわっているよね。
師弟関係だけれど同い年って微妙なんだろうなぁ。
でも、そもそも「私」は宗教的な尊師としての「あの人」に興味ないよね。
宗教上の教えも信じていない。
ただただ、「美しい」存在としての「あの人」を愛しているのであって、「私」は別に神も天国も信じていない。
「人間イエス」を愛しているだけであって「神の子イエス」なんて信じてもいなければ、興味もない。
そもそも、イエスが「神の子」だなんて、実際は後付け話だったんだじゃないの。

クリスチャンがいたら「不敬」とも受け取られかねない「危ない」議論は、酒の力も借りてますます過激に続いていく。
いやいや、ちょっとまてよ。
この小説読んでいるとイエスの人間性が、かなり人間臭くていやらしいものに思えてくるけれど、これって、あくまで「太宰」が描いた「イエス」像であり「ユダ」像だからね。
あやうく太宰の文章力に引っ張られがちになるけれど、そこんとこを忘れないように。

この小説、というか一人語りには段落がない。
最初にそのことを指摘する声もあったけれど、実は二つだけ段落分けがあることを見つけた参加者がいた。
最初の訴えの掛け声である段落。
そこから、「あの人」への怨嗟を一気呵成に弁じる段落。
そして、もはや「あの人」が刑に処せられることが避けられないと悟った後の段落。
たしかに、大きな感情の起伏と変転は、この小説の魅力の一つだ。
なかでも、一度だけ「私」の頑な心が解きほぐされる場面がある。

あの人が、春の海辺をぶらぶら歩きながら、ふと、私の名を呼び、「おまえにも、お世話になるね。おまえの寂しさは、わかっている。けれども、そんなにいつも不機嫌な顔をしていては、いけない。寂しいときに、寂しそうな面容おももちをするのは、それは偽善者のすることなのだ。寂しさを人にわかって貰おうとして、ことさらに顔色を変えて見せているだけなのだ。まことに神を信じているならば、おまえは、寂しい時でも素知らぬ振りして顔を綺麗に洗い、頭に膏あぶらを塗り、微笑ほほえんでいなさるがよい。わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかっていて下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」そうおっしゃってくれて、私はそれを聞いてなぜだか声出して泣きたくなり、いいえ、私は天の父にわかって戴かなくても、また世間の者に知られなくても、ただ、あなたお一人さえ、おわかりになっていて下さったら、それでもう、よいのです。私はあなたを愛しています。


「私、あなたのために頑張っていますよ」と口に出さずとも、それを評価されない「寂しさ」をしぐさや表情に出して「わかってよ!」と訴えることは、「偽善者」のすることなんだ。
心の裡や動機を見せるなよ。
右手のすることを左手に教えちゃだめよ。
でも、そんな説法より「私」は、「私」をわかってくれた「あなた」(イエス)の承認の方に喜びを感じてしまう。

これって、神以上にイエスに対するユダの信仰なんじゃない。
そんな話にもなった。
信仰と愛のあいだに境界はあるのだろうか。
どうなんだろうね。
信仰は盲目の愛なのだろうか。
でも、少なくとも「私」は「あなた」への「無償の愛」を訴えながらも、「あなた」の「承認」という見返りを求めちゃっているよね。
それは姿かたちのない無限の神(ヤハウェ)への信仰や愛とはやっぱり違う、人間への信仰や愛なんじゃないかな。
姿かたちある人間を信仰してしまうことは、やっぱり無償ではなくある種の「見返り」を求めざるを得ない関係構造になってしまう。
本人がそれを求めていなくても、である。
見返りを求めない愛の純粋贈与は、実在をみえる形では証明できない「神」であるがゆえに可能になるんじゃないかな。
でも、この小説において「私」はそんなの関係ない。。
神じゃなくて、「あなた」を愛しているのだ(おや、いつの間にか「あの人」が「あなた」に変わっている)。
だから、そんなの放っておいて、お母さんのマリアと一緒に三人で暮らそうなんて言う。
でも、「あなた」は妻を娶ってもいいともいう。
「私」は「あなた」と夫婦になりたいわけではないらしい。
でも、彼を独占したい。なんだろうこの関係性。

マグダラのマリアへの嫉妬にも狂った。
エルサレムの宮殿での暴挙・狂気にうんざりさせれて、もはや「あなた」が殺されざるを得ない最後の運命を悟った。
愛する「あなた」が他人に殺されるくらいなら、「売られる」くらいなら、「私」が「売ろう」。
理解されなくても、それが「私」の「純粋な愛」の証明である、と「私」は悟る。
それでも、「あなた」の寂しそうな姿に、「私」はその歪んだ愛の表現である「裏切り」の考えを一瞬、悔い改めた。
しかし、しかし、残酷にも、その「私」の一瞬の改心、一瞬の悔い改めは「あなた」に伝わらなかった…

あの人も少し笑いながら、「ペテロよ、足だけ洗えば、もうそれで、おまえの全身は潔きよいのだ、ああ、おまえだけでなく、ヤコブも、ヨハネも、みんな汚れの無い、潔いからだになったのだ。けれども」と言いかけてすっと腰を伸ばし、瞬時、苦痛に耐えかねるような、とても悲しい眼つきをなされ、すぐにその眼をぎゅっと固くつぶり、つぶったままで言いました。「みんなが潔ければいいのだが」はッと思った。やられた! 私のことを言っているのだ。私があの人を売ろうとたくらんでいた寸刻以前までの暗い気持を見抜いていたのだ。けれども、その時は、ちがっていたのだ。断然、私は、ちがっていたのだ! 私は潔くなっていたのだ。私の心は変っていたのだ。ああ、あの人はそれを知らない。それを知らない。ちがう! ちがいます、と喉まで出かかった絶叫を、私の弱い卑屈な心が、唾つばを呑みこむように、呑みくだしてしまった。言えない。何も言えない。あの人からそう言われてみれば、私はやはり潔くなっていないのかも知れないと気弱く肯定する僻ひがんだ気持が頭をもたげ、とみるみるその卑屈の反省が、醜く、黒くふくれあがり、私の五臓六腑ろっぷを駈けめぐって、逆にむらむら憤怒ふんぬの念が炎を挙げて噴出したのだ。ええっ、だめだ。私は、だめだ。あの人に心の底から、きらわれている。売ろう。売ろう。あの人を、殺そう。そうして私も共に死ぬのだ、と前からの決意に再び眼覚め、私はいまは完全に、復讐ふくしゅうの鬼になりました。

イエスよ、汝が神の子であるならば、ユダのそのくらいの心理を読み取れよ…
そんな思いにもかられた。
もっとも、それが太宰の思惑にまんまとはめられたことの証左でもあるのだけれど。
結果として、神も天国も信じていない、ただただ人間としてのイエスを愛したユダの裏切りは、歴史に「神の子」としてのイエスを実現してしまう。
意図しなかったこの歴史の結末を、ユダは「いや、違う、違うんだよ!そういうことをしたかったわけじゃないんだ!」と、あの世で神に「駆込み訴え」していたかもしれない。
おっと、危ない、危ない。
これも太宰によってはめられた解釈なのだ。


相変わらず、この会の最後は、酒の力によっていつの間にか小説の話題からフェイドアウトしていった。
それでも、マスターであるふるほんやかずのぶ氏のチョイスはさすがだ、と思われるほど、みんな饒舌に語った。
ふるほんや氏は、この「駆込み訴え」を演じた小林エレキ氏の一人芝居の見事さを語ったことも印象的だった。
そのスーツ姿で演じたという一人芝居は、「はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。」という最後のセリフを言いながら名刺を差し出すという場面で幕を閉じたという。
想像するだに、さぞ圧巻の演技だったのだろう。
それを見てみたい!そんな思いにもかられた。
聖書に関してあまり知らないという参加者は、ずっと女性の話だと思いながら読み進めていたところ、この最後のセリフによってはじめて「ユダ」の話だったことに気づかされたという。
素敵な読みの過程だったと思う。
そんな余計な知識や先入観を持たずに読みすすめるというのは、どんな読書体験だったのだろう。
ファシリテーターがいないからこそ自由に語れるという感想を漏らした参加者もいた。
酒の力がそれを可能にするのだろうか。
でも、やっぱり、酒の力は記憶を留めておかない。
もっと、たくさん面白い話題になっていたはずだ。少なくともその印象は饗宴の強烈な楽しさとして残っている。
各自、覚えている人は断片だけでもコメントに残してくれないだろうか。(文・渡部 純)