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「風が吹くとき」を読む会・まとめ

2018-09-17 | 文学系
  

『風が吹くとき』という絵本は、今回のカフェマスター・宮川綾香さんから教えてもらいはじめて知りました。
その後、色々調べると映画化もされており、さっそくアマゾンで購入。
このアニメ映画の日本語版キャストが凄い。
監修は大島渚。主人公の夫ジムの声は森繁久彌、妻ヒルダの声は加藤治子。
音楽をピンク・フロイドのロジャー・ウォーター、主題歌をデヴィッド・ボウイが担当しています。

あらすじはこう。
老夫婦のジムとヒルダは、イギリスの片田舎で年金生活をおくっていた。しかし、世界情勢は日に日に悪化の一途をたどっていく。ある日、戦争が勃発したことを知ったジムとヒルダは、政府が発行したパンフレットに従い、保存食の用意やシェルターの作成といった準備を始める。
そして突然、ラジオから3分後に核ミサイルが飛来すると告げられる。命からがらシェルターに逃げ込んだジムとヒルダは爆発の被害をかろうじて避けられたが、互いに励まし合いながらも放射線によって蝕まれ、次第に衰弱していく。 (wikipedhia)

とにかく暗い絵本・映画。
今回はカフェ宮川で映画を視聴してから始めたが、そのストーリーはどうしようもなく救いがない。
「互いに励まし合いながらも放射線によって蝕まれ、次第に衰弱していく」二人は、聖書の祈りを唱えながら死を迎えるであろうところでストーリーが終わります。
その最後のコマは本「600万の兵士…死地に…」というセリフで幕をとじるのですが、この言葉の意味が分かりませんでした。
よくよく「あとがき」を読むとテニソンの詩「軽騎兵の突撃」の断片であることが記されていました
この詩はクリミア戦争の際に、イギリスの軽装備旅団600人が、彼らに下された命令の愚かさを承知でロシアの砲兵隊に切り込み、ほとんど全滅したことを詠った愛国的な詩であるといいます。
しかも、明治期には日本でも訳されて流行したそうです。
そして、なぜ、その詩の断片がストーリーの最後を締めくくったのかは、一読すれば腑に落ちます。


すなわち、田舎に住む老夫婦は仲睦まじく過ごしてきたのでしょう。
夫ジムは国際情勢を大いに語り、核戦争の恐ろしさを説く一方、妻ヒルダはその渦中にあっても家の中の整理など日常の秩序が壊れないことの方に気を揉みます。
いかにも男性と女性の関心の違いが描かれていますが、そのなかでジムの愚直なまでに政府を信用しているさまが印象的でした。
政府発行の「戦争に生き残るための手引き」など、そのマニュアルを忠実に守るジム。
そして、水爆投下後、被ばくによって身体が壊れていくさなかにも、すぐに政府の救援部隊が来ることを不安がる妻に語りかけながら励ますジム。
その姿は滑稽なまでに楽観的なのですが、作者のブリッグスは、彼の姿をクリミア戦争で犠牲にされた軽騎兵と重ねたのではなかったでしょうか。

マスターの宮川絢香さんは、今回の趣旨をこう書いています。

「私が『風が吹くとき』を初めて読んだのは小学校2~3年生の頃。
もちろんその時は知識など皆無でしたが、それでもこの本を『怖い(恐い)』と感じた記憶があります。
その後、1999年のJCO臨界事故を経て、現職に就いた初任校で東日本大震災を経験しました。
私の人生で放射線被爆について強く考えさせる機会が3回あったことになります。
 東日本大震災の際、いわき市四倉の実家にて水素爆発のテレビ中継を見た私は、母親と死別の覚悟で別れるときにこの本を思い出しました。
無事に生きて再会し、平和に過ごしている今もあの時の情景と共にこの本が浮かびます。
 初任校での出会いにより、この場にいる幸運を手にしたのも何かの縁と思い、人生経験や知識を伴って今、もう一度『風が吹くとき』を読んでみたい。また、多くの人にこの本を読んでいただき、何を感じるか・どう思うかを聞いてみたいと思います。」


当時、ワタクシと同僚だったマスターとは、ともにあの原発事故直後の過酷な時期をともにした戦友です。
しかし、今回、この本をめぐって語っていただいた原発事故被災の経験談には私自身が知らない事実を語られたことに驚かされるとともに、あらためて被災をめぐる葛藤の個別性と多様性を思い知らされました。

「母親との死別の覚悟で別れるとき」とは強烈な言葉です。
彼女が実家に戻っていたときに原発が水素爆発を起こした際、母上は「ここには二度と戻れないから、お前が連れてったくれ」と祖父母を託されながら、ご自身は職場に戻る選択をしたそうです。
そのとき、マスターは「こんなときくらい、家族をとってもいいじゃないか」と思いながら想起したのが本書の次のシーンでした。



この、急性被ばくの症状が出だしたジムの明るく歌う姿は痛々しい以上の恐ろしさを読み手に与えますが、マスターは「自分の母もこうなるのかもしれない」との不安を覚えたことをはっきり記憶しているといいます。
幸い、こうしたことになることはなかったわけですが、あのとき、多くの人が同じ思いに駆られたのではなかったでしょうか。
そして、別れ際、母上には「お前は一人で生きていけるから」といわれたそうです。
以来、家族同士で連絡した最後の言葉は「生きてもう一回会おう」だったそうです。

二度と会えないかもしれないという切迫感。
まさに、ジムとヒルダが直面した出来事がリアルに経験されたことに外なりません。
その根底には、小学生の時に読んだ本書の読書経験があったということはとても印象的です。
マスターは理系の教員です。
JCO事故で亡くなられた方の凄まじい死を知るにつけ、急性被ばくによる死がどうしようもないことを認識しつつも、放射線に関する基礎資料を提示しつつ、科学的に被ばくの曲解を避けようという姿勢で語ります。
しかし、印象的なのは、科学的評価と自身の思いの振れ幅です。
いや、そのときは落ち着いて被ばくの科学的理解を深められなかったから動揺したのだ、とおっしゃるかもしれません。
それでも、ワタクシには科学的客観的評価ができれば動揺しなかったという論理とは別に、幼いころに読んだ文学の力が妄想に働いたということではないと考えています。
科学的に正しく理解すれば不安を覚えないというのは、伊藤浩志氏の『復興ストレス』によって批判されています。
むしろ、今回の読書会から出だされるのは、人文の力を妄想と切り捨てるのではなく、別の仕方で人間が思考や判断に与える可能性があることをもっと真剣に考えなければいけないのではないか、ということです。

実は、福島市が高線量に汚染された原発事故直後、ワタクシは意を決して当時の校長に全職員避難民の即時避難を進言しに行ったことがあります。
ただ、当時は異常な恐怖心を抱いていたために自分自身が狂っているのかもしれないと思い、まずは二人の若い同僚に進言する内容がおかしくないかを確認してから校長室に乗り込もうとしました。
そのときに相談した一人がマスターでした。
お二人とも異論はないというので、「じゃ、これから校長室へ行ってくる」と踵を返すと、意外なことにお二人が一緒に乗り込むと言い出しました。
その時の記憶を想い起すと、ワタクシが被ばくの危険性を校長に説いたとき、彼はまだピンときていない様子でしたが、顔色を変えたのはマスターが涙とともに訴え出た瞬間でした。
その時の内容も覚えていますが、その背景にマスターの上述の葛藤があったことは、7年を経て初めて知りました。
おそらく、ストレートにはたがいに語り合えなかったのかもしれませんが、この本を媒介に7年越しでマスターの当時の思いや経験を聴くことができたのは、ワタクシにとって忘れがたい時間となりました。

その後、マスターは素敵なおつれあいと出会い、このカフェ宮川でこうした機会を与えてくれました。
今回のお話の衝撃は個人的には大きいものであり、時間をおいてあらためて議論したいことです。
ほんとうは、マスター夫妻が準備して下さった素敵なディナーを堪能しながら、その続きを議論しようといったのですが、あまりに料理が素晴らしすぎて、すっかり楽しい饗宴になってしまいました。


こうした機会を意欲的に設けて下さった絢香マスターにはもちろん、とおるシェフには感謝してもしきれません!
まるで高級中華&アジアン料理店。
実は、ワタクシを含めてその場に誕生日を迎えた参加者向けに、いわき名物ジャンボシューもご準備くださりました。

お二人の歓待には心より感謝申し上げます。
もう、カフェ宮川にのめり込みです。
次回は、トオルシェフによる3時間クッキング講座を開催するかもしれません。
ともかく、頭も胃袋も充実した四倉カフェロゴの時間、ありがとうございました!(文・渡部 純)