カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

ギリシャ正教の起源(2)「分離の教会」『汝巌なり』フランツ・フィンゲル神父

2019-08-04 03:17:08 | プロテスタント
フランツ・フィンゲル神父「分離の教会」『汝巌なり』山形天主公教会、1926年

3、ギリシャ正教の起源(2)

 ギリシャ正教について語られた事柄は、だいたいロシア正教とロシア教会にもあてはまるものです。すなわち、ロシアの人民は、ちょうどギリシャ正教がカトリック教会から分離したその時代にキリスト教に改宗したので、コンスタンチノープルとの密接な関係の結果として、ともに離教と分離の教えになりました。

 ギリシャ正教会は、カトリック教会から分離しましたから、己の組織的弱味によって、だんだん幾多の他の独立な教会に分かれてしまいましたが、ロシア教会は、ロシアの昔の政府が、大分強制的にロシア教会の外部的の一致を守るように尽力したために、ギリシャ教会ほどは分裂しませんでした。

 率直にいえば、ロシア教の割合に力の弱いのは、公教会からの分離と国家の圧迫との結果です。もし、ある人ある団体があまりに圧迫されると、時として殉教者のように英雄的な善徳を行うこともありますが、多くの場合活動力は自然に弱くなります。
 申すまでもなく、国王の権威も全世界の秩序を守り、人類を真の幸福に導くことを希望し給う神から賜ったものに違いありません。ですから聖パウロは、

 「人、各々上に立てる諸権に服すべし、蓋し権にして神より出でざるものはなく、現に在るところの権は神より定められたるものなり故に権に逆らう人は神の定めに逆らい、逆らう人々は己に罪を得」(ロマ13、1-3)と申されました。けれども、権力者といえども、己の権威の範囲内にとどまるべき責任があります。己の権威の範囲を超えて、故意に他人の権威の範囲内に侵入するならば、その行動の結果、秩序紊乱その他の不幸となりましょう。

 もし、現代のロシアの人民は、新たに幸いの基礎を作り、幸福な将来に向かって進歩したいならば、カトリック教会と再び合併してカトリック教会の宗教上、道徳上の後援を得るように活動すべきであります。特に日本でだんだん出来たロシア教徒は現代の事情を顧みて、カトリック教会に入るのは立派なことでしょう。ロシア教は、ギリシャ教と同様に、教理の方面はカトリック教会とそう違いませんから、公教会に帰る条件はさほどむずかしくはありませんが、これに反して霊魂上の利益は非常に大きいのであります。



よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

ギリシャ正教の起源「分離の教会」フランツ・フィンゲル神父

2019-08-03 01:00:55 | プロテスタント

フランツ・フィンゲル神父「分離の教会」『汝巌なり』山形天主公教会、1926年

2、ギリシャ正教の起源

 使徒聖パウロは、ヘブライ人にあてた書簡で、キリストが大司祭である資格を説明しながら、ただ適当な性質のある信者だけがカトリック教会の中で司祭の職を担うべきことを勧告しようと思って、

 「また神に召されたることアーロンの如くならずしては、何人もこの尊き位を自ら取る者なし」(ヘブライ5・4)と警告をしました。キリストご自身が、御在世中に、教会のはじめの司祭たちであったその使徒たちに、もっぱら謙遜の善徳を具体的に示そうと、

 「異邦人の君主が人をつかさどり、大なる者人の上に権を振るうは、汝らの知るところなり、汝らの中には、然あるべからず、汝らの内に大ならんと欲する者は、かえって汝らのしもべとなるべし」(マタイ20・25-28)と教えたまいました。

 ギリシャ正教の起源を見ると、幾多の権威者の大なる傲慢こそは、禍の源になったということがわかります。このような権威者は、国家のほうにも教会のほうにもありました。もとのローマ帝国の都であって、その後、カトリック教会の最上のかしらの座になったローマに対して、今のトルコの都であるコンスタンチノープルは、ギリシャ帝国の都になったので、そこにいた権威者は、ローマの権威者と大いに競争するようになりました。同時にコンスタンチノープルの皇帝と政府は、大体においてカトリック教会の発達のために非常に尽力しましたが、時々誤った政策をとり、暴力さえ加えて教会の事柄に無理に干渉しました。特に、教会内にあまりに御用の司教を任命しようと努力したことは、教会のためにも、国家のためにも大きな失策でありました。

 ギリシャ正教の起源をもつと、詳しく言えば、その地方に住んでいたキリスト信者は、キリストの御降世からおよそ1千年の間は、たまには多少の分離や離教もあったけれども、概してイエズス・キリストのご希望のとおり、カトリック教会のかしらのもとに宗教上の一致をよく守りました。けれどもキリスト御降世からおよそ1千年ごろに、コンスタンチノープルの政府の間違った政策と、ミカエル・ケルラリウスという政府の御用人物であって、自ら教皇と同じような位に上ろうという、あさはかな野心を懐いていたコンスタンチノープルの大司教の運動の結果、特にバルカン半島および小アジアのカトリック信者の大部分を、カトリック教会から分離しました。事実において、キリストの定めたもうた、真理の磐であるカトリック教会から分離しました。これらの分離したキリスト信者は、いわゆる民族的に独立の教会になり得たことをしばらく誇りましたが、だんだん内部的な弱味に陥り、ギリシャ帝国のためにもかえって不利益となりました。

 このように、カトリック教会から分離したキリスト信者をさらにカトリック教会と合併する運動は、その後時々起こりましたので、両3度、大分成功したこともありました。

 現代でも合併運動は、さらにますます盛んになる模様があります。

 特にギリシャ正教は、分離の時代から別に他の異説を唱えることが、ほとんどありませんでしたから、教理と組織との点がカトリック教会に大変近いので、再びカトリック教会に帰一するのに大きな差し支えはないはずです。



よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

「分離の教会」『汝巌なり』フランツ・フィンゲル神父

2019-08-02 02:44:51 | プロテスタント

フランツ・フィンゲル神父「分離の教会」『汝巌なり』山形天主公教会、1926年

 教会の創立と組織に関する聖書の言葉と象徴を調べてみますと、イエズス・キリストが数多の教会を創立しないで、唯一の教会だけを創立し、これに根本的の組織を与えたもうたというのは、確かな事実であります。

 現代では、キリストの定めたもうたカトリック教会のほかに、様々の比較的小さな他の教会が存在しますが、これらは、分離と離教の結果にほかならないのであります。

 この章では、まず、いわゆる分離の教会の話をいたしましょう。
 本章の3節は、「教会と国家」「ギリシア正教の起源」「ロシア正教のこと」であります。

1、教会と国家

 教会の目的は、イエズス・キリストの救世主たる使命を世の中に続けることであります。
 すなわち、イエズス・キリストの指名は、人々を罪から救い、善徳の道を歩ませ、天国の永遠の幸福に導くことであります。
 教会の使命もまた同じとおりであります。
 公教要理に書いてあるように、人のこの世に造り出されたのは、天主を認め、天主を愛し、天主に仕え、最終的に天国の福楽を享けるためであります。

 この世の中にある種々の国家及び教会の大きな差別を明らかにするために、キリストは御死去の日に裁判所で、
「我が国は、この世の国にあらず」(ヨハネ18・26)
 と、公に宣言されました。教会と国家とは、幾多の方面において関係があっても、その性質と目的とは違いますから、両団体の権威者が、各自の権限の範囲内にとどまるならば、衝突の危険は少しもないのであります。同じ人々が国家の臣民であると同時に教会の信者であるということには、何の差し支えもありません。公教会の信者であるから、国家に対する義務を十分に尽くすことができないというのは、愚かな話で、そんなことは全く讒言にほかなりません。むしろ、公教会の信者方こそは、公教に従って、信仰上かつ道徳上の義務を熱心に果たせば果たすほど国家にもなお忠実を守って、臣民としての一切の義務を一層熱心に果たすのであります。

 あるとき、多くの群衆は、聖なる教えを聞こうと思って、大なる熱心をもって、八方からキリストの許に集まって長くとどまりましたので、遂に持ってきた食料もなくなり、飢えても食べられませんでした。キリストは、群衆のこの有様を見て、深く同情し、彼らを助けるとともに、偉大な奇蹟をもって御自分が天の使者であることを、彼らの眼の前に、証明しようとして、神の全能によって
、5つのパンと2匹の魚とを大変に増やし、これをもって、5000人以上の群衆を満腹させました。群衆は、この偉大な奇蹟に感激して、キリストを自分たちの王に戴きたいと希望しました。キリストが、彼らの希望を知って、まず、彼らの前から御身を隠され、その翌日彼らの心を地上の事柄から天の方へと向上させるために、御聖体という最も意味の深い奥義のことを彼らに述べられました。このように群衆の信仰を試しつつ、あまりにも俗世間的であった信仰の足らない人々を御自分から去らせになりました。

 ユダヤ国に、ずいぶん勢力のある党派であった、いわゆるファリサイ人は、自分たちの俗世間的な利己心と、野心とに惑わされて
、宗教と世間のこととを混同して、宗教上の熱心の仮面の下に、皇帝に税金を払うことを否むほど、間違った思想を広めました。ある日、ファリサイ人は、キリストに向かって
 「師よ。あなたが真実に、真理によって神の道を教え、かつ、人にえこひいきしないことで、誰にも憚らないのは、私たちの知っているところです。そうでしたら、そうでしたら、ローマ皇帝に貢を納めるのは、良いことですか、悪いことですか。御考えを私たちに言ってください。」
 と言いました。

 イエズス・キリストは、彼らの問いに答えて、
「偽善者よ。どうして私を試みるのか。貢の貨幣を私に見せなさい」
 とおっしゃいました。彼らが、デナリオという銀貨を差し出したところが、イエズス・キリストは神にも皇帝にも相当な義務を果たさなければならないと教えて、この問題を解決して、簡単に
「だから、カエサルのものはカエサルに帰し、神のものは神に帰せ」(マタイ22・16)
とお答えになりました。
 イエズス・キリストは、彼らの問いに答えて、
「偽善者よ。どうして私を試みるのか。貢の貨幣を私に見せなさい」
 とおっしゃいました。彼らが、デナリオという銀貨を差し出したところが、イエズス・キリストは神にも皇帝にも相当な義務を果たさなければならないと教えて、この問題を解決して、簡単に
「だから、カエサルのものはカエサルに帰し、神のものは神に帰せ」(マタイ22・16)
とお答えになりました。



よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

プロテスタントとイギリス(聖公会) 異教会のこと:3 

2019-08-01 00:07:14 | プロテスタント
フランツ・フィンゲル神父「異教会のこと」『汝磐なり』山形天主公教会、1926年

3、プロテスタントとイギリス(聖公会)

 プロテスタント起源の時代には、以前ドイツと同じくカトリック信者であった英国のアングロサクソン民族は、ドイツ民族が約半分しかプロテスタントに属しなかったのに反して、後日ほとんど全部プロテスタントの天下になりました。

 プロテスタントというのは、カトリックと同じように教理と組織との方面において一致を堅く守る宗教上の団体という意味ではありません。特に現代のプロテスタントは、むしろ何百宗派に分かれて来ているのであります。この不一致こそは、この宗派が、キリストの教えたもうた教えから離れてきたこと明らかな証拠であります。

 イギリスがカトリックから分離して異教の国になったのは、主にルーテル時代の国王ヘンリー8世の結婚問題、もっとはっきり言えば、離婚問題の結果でありました。プロテスタントがドイツでだんだん出来始めたときに、ヘンリー8世は、まず、大いに反対し、ルーテルの運動に対抗し、カトリックを擁護するために特別の書物を著すほどの熱心を見せましたが、しばらくたつと彼は、不幸にして肉欲のワナにかかり、すでに5人の子どもを産んだ妻との結婚が無効であるよう、また、他の婦人と結婚してもよいという宣言を教皇から得ようと。大いに努力するようになったのであります。

 教皇は大変困りましたが、国王といえども他の婦人と結婚することは、明らかに婚姻の神聖を保護する神の定めとカトリックの教理に背きますから、教皇も許可を与えることはできませんでした。ヘンリー8世は、つまり、自らの情欲に克つことができないで、むしろ、自らカトリック教会から分離したのみでなく、恐ろしい暴力を加えて、その国民の良心の自由に大いに干渉して、国民をカトリック教会から分離させたので、当時イギリスは英雄的な殉教者をたくさん出しました。当時の首相トーマス・モア(注釈:カトリック教会で列聖済みの聖人)でさえも、ヘンリー8世の迫害を受けて立派に殉教しました。

 最初はただの「分離の教会」であったイギリスのキリスト教は、ヘンリー8世の息子の時代に、本当の「異教会」になりましたが、イギリスでは、近年再びカトリック教会に改宗する運動が割合に進んで、少なくとも個人としてカトリックに改宗するイギリス人の数は、ますます多くなってきています。



よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

「異教会のこと」2 フランツ・フィンゲル神父

2019-07-31 20:22:53 | プロテスタント
フランツ・フィンゲル神父「異教会のこと」『汝磐なり』山形天主公教会、1926年
2、

 何か大きい争いが起こるときは、争いの爆発の起因とそのもっと深い本当の理由をよくよく区別しなければなりません。そうしなければ、ある問題について大いに誤解して、非常に間違って、判断することを免れないでしょう。ルーテル及びその協力者の行動を見ると、まったくこの通りでありました。

 彼らによって起こされた「宗教革命」の爆発の近因は、「贖宥問題」でありましたが、本当の理由は、すでにルーテルについて話したとおり、信仰と道徳の方面にいろいろのことがあったのであります。

 プロテスタントの起源をよく理解しようとするならば、当時のドイツの事情をよくよく顧みなければなりません。キリスト教に改宗してから、非常に盛んになったドイツ帝国内には、だんだんカトリック教会に対してギリシャ帝国におけるのと同様な現象がいくらかあらわれてきました。宗教革命の発達を悟ろうとするならば、特に次のような事情を見過ごしてはいけません。

 すなわち、当時のドイツは、実に大きい帝国でありましたが、「皇帝」の実際の勢力は、国中にだんだん自分の勢力をますます大きくしようと努力する多くの大名小名のような諸侯のために、ずいぶん制限されました。しかし、ちょうどルーテルの時代には、彼らのうちに、祖国と全国民の真の幸福よりも、己の利己心と野心を満足させようと思った諸侯が割合にたくさんありました。

 そして、ルーテル及び彼の協力者は、なおこのうえに、皇帝に対して、諸侯を扇動しましたから、諸侯は実に武器さえ執って、皇帝に背きましたが、不幸にして外国の後援を受けましたので、ずいぶん成功いたしました。

 これらの事情と関係し、ドイツ民族は、だんだん宗教の方面において2つに分かれて、主に西南地方はカトリック教会に忠実を守りましたが、北部ドイツはたいていプロテスタントになりました。しかし、一心にルーテル及びその一派の人の誤謬を認めて、宗教上の一致に帰るということは、現代のドイツ民族の回復と発達の第一の重大な条件だろうと思います。



よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。