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3-2、天国に昇る道

2025-01-25 06:08:12 | 浦川司教

祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

十 一 月 一 日


(三) 天 国 に 昇 る 道

(2)-昔イスラエル人はモイゼに引率されてエジプトを出ました。紅海を渡り、約束の地に向って旅立ちましたが、途中で少し食物に不足するとか、水が切れるとかすると、忽ち後を顧みて、エジプトを恋しがり、「ああエジプトに居れば可かったのに!」と呟くものですから、其の罰で殆んど皆途中で倒れてしまいました。皆さんも洗礼をお授かりになり、天国をさして旅立ちをして居られる、それに毎朝毎晩お祈祷をするのは面倒だ、毎日曜日ミサを拝聴するのは辛い、罪の機会 (たより)に遠(とおざ)かるなんて、それでは自分の好いたこともされず、言いたいことも言はれない、腹が立っても堪忍しなければならない、堪(たま)ったものでない、未信者は実に仕合せなものだ、言いたいことは言う、仕(し)たいことは為(す)る、寝たい時に寝、起きたい時に起きる、行きたい所えは行く、ああ自分も未信者であればよかった等と、そんな考えを起しなさるならば、それこそイスラエル人の弐(に)の舞をするのじゃありませんか。

 イスラエル人が折角,紅海を渡りながら、約束の地に入ることできなかった如く、皆さんも、洗礼を受けて天主の愛子となり、天国を目指して進みながら、その天国に辿りつくことできないで、途中にのたれ死にをする救霊を失い、地獄に堕落する様な不幸に陥らないでしょうか。

 是とても、つまり後を顧みたり、隣近所を眺めたりする結果に出るので、そんな事がない為め、この祝日の序(ついで)を以って、誰方も仰いで天をお眺めなさい、私は特にお勧め致します。




浦川和三郎司教『祝祭日の説教集』(三)天国に昇る道

2025-01-24 19:10:17 | 浦川司教
祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

十 一 月 一 日

(三) 天 国 に 昇 る 道

(1)-諸聖人の祝日に当りまして、天に昇るの路を研究して見るのは当然のことでございましょう・・・。然らば聖人等はいかにして天に昇られましたか、奇蹟を行なつてでしょうか。容易に真似もできないような驚くべき善業を果たしてでしょうか。決して然うではありません。

 なるほど数多い聖人の中には、大きな奇蹟を行ったお方もあれば、非常に驚くべき難行苦行を重ねたお方もないではないが、皆が皆そうなさった訳ではありません。聖人と雖も、やはり我々同様の人間でありました、不足もあれば、罪にも落ち易い、情欲の強い、悪魔にも強(したた)か誘(いざな)はれたお方もある、恐ろしい罪悪に汚れ果てたお方すら無いではありません。 

 聖パウロや、聖マグダレナや、聖アウグスチヌスの如きは、実に大した罪人でございましたが、しかし今日では大聖人と崇められています。して見ると、いか(どん)な人でも、天国に昇れぬ筈はない、私は不足が多いから救われ得ない、私は始終悪魔に誘われて居るから、情欲が盛んだから、到底駄目だ、私はこんなに大罪を犯して居るのに、どうして天国え昇れるか、等と思うには及びません。誰だって救われる、天国に昇れる、私は保証します、それには条件がただ一つ、聖人等の行かれた路に辿ることであります。聖人等は天主の聖寵をよく用い、信者の義務を忠実に果たすべく務められた罪も犯しましたけれども、早く痛悔しました。

 痛悔して起ち上がりました。起ち上がってからは再び罪に落ちてはならぬと、用心の上にも用心をして、罪の危い機会(たより)に近づかない様、悪い友に遠ざかる様、注意したものであります。



天国には欲しいものは何でもある 浦川和三郎 司教「諸聖人の祝日」『祝祭日の説教集』

2024-12-11 16:14:52 | 浦川司教


(4)-天国には欲しいと思うものは何でもある ー 目はその見事な景色、そこに住んでいられる天使、聖人聖母マリア、神の御子、至聖三位の美しい立派な御姿に見入り、耳は絶えず天使や聖人などの曲(ふし)面白く天主を讃美するその楽しい歌にうっとりと我を忘れて聴きとれるのであります。殊に聖人などが何よりも嬉しく覚えられるのは、善の善なる天主を面(まのあた)りに仰ぎ見て楽しむことであります。天主を仰ぎ見ると共に、その底知れぬ深い深い愛を悟るのであります。自分のために人となり、厩に生まれ、十字架上に死し、聖体の中に食物となって、自分を養い下さったその感ずべき愛を悟って、何んなに吃驚するでしょうか。自分を改心せしめるために浴びせ給うた聖寵、自分を勧め戒めて下さった数限りなき御恵みを一々数え上げては、どんなに仰天するでしょうか。貧乏だとか、病気だとか、災難だとか、自分が今の今まで禍である、不幸であると思っていったのも、実は決して禍ではない、不幸でもない、それこそ天主が自分を天国に引挙げんがため、降し給うた価(あたい)高き恩賜(たまもの)であったよと悟っては、余りの嬉しさに身の置き所も知らないくらいでありましょう。まして自分の友人、隣近所の人々が、自分ほどの罪も犯さないながら、心から痛悔しなかったために、救霊を失い、地獄に苦しんでいるのを天国より打ち眺めては、何とて御礼の申し上げようもなく、ただ感涙に咽び、嬉し泣きに泣くばかりでありましょう。

(5)-聖人などの楽しんでいられる天国の福楽は誠にこんなものでございます。しかもそれが百年でなく、千年でなく、天主が天主にています限り、いつになっても終わりを知らないのであります。

 誰にしても福が嫌いで、楽しみが厭な人というはありますまい。しかれば、どなたも宜しく目を挙げて天国をお眺めなさい。聖人などに与えられた楽しみは、我々にも約束されてあるのです。貪欲(どんよく)は人に賎しめられるが、しかしそれは欲が余り小さいから、この世の僅かな目腐(めくされ)金、汚(けがら)わしい快楽、儚(はかな)い名誉、そんな被造物に対する小(ち)ぽけな欲だからそうなので、我々はむしろ聖人などの如く、大いに欲ばり、限りなき天の福楽を望みましょう。なるほどそれは決して生易しいことではありません。しかし人はお金を儲けるため、昇級するため、少しく地位を進めるためならば、いかほど熱心に働きますか。千円も一万円も目の前にころがっているという時は、夜を日に継いで、寝むことも食べることも忘れて、山を越え、海を渡り、一生懸命に働くじゃありませんか。そうして働いても必ずそのお金が儲かるものと決まっている訳ではありません。往々は損する、辛労損のくたびれ儲けに終わることが多い、それでも猶、懲りずに東に西にかけまわるのであります。しかし天主と取引をする、天国を目的に働くならば、決して損をする気遣いはない。

 必ず儲かる、それも千や万の目腐金ではない、限りなき天国の宝、天主を我が物とするの幸福である、誰かこれを思ったら腕打ちさすり、力足踏み鳴らして奮い立たずに居られましょう。苦労や、艱難や貧の悩み、病の辛さ、其などが山の如く前途に突っ立っていましても、踏み越え踏み越え進んで行こう。側目(わきめ)もふらずに駆け出そう、勇往邁進しようという決心にならずにいられますでしょうか・・・


浦川和三郎 司教「諸聖人の祝日」『祝祭日の説教集』

2024-11-25 23:29:27 | 浦川司教
十一 月 一 日

(二)諸聖人の祝日

(1)-聖会は毎日毎日聖人などを尊敬していながら、特に諸聖人の祝日なるものを定めたのは何のためでしょうか、それは総ての聖人を一つに集めてこれを尊敬するためであると共に、また我々の聖人などに対する尊敬が常に不足勝であるから、それを補わせるためでもあります。しかれば皆さん、今日は特に熱心をあらはして、この祝日を守り、一年中、聖人などに対して礼を欠き、十分の尊敬を尽さなかったところを償うように心掛けようではありませんか。

 しかし聖会の志はただこればかりに止りません。その重なる目的は聖人などの楽しんでいられるその大いなる天国の福楽を我々の目の前にくりひろげて、我々の眠りを醒まし、自分も是非あの天国に辿り着かねばならぬという心を起さしめるにあるのであります。で今日は天国の福楽について篤と考えて見ることに致します。

(2)-天国の福楽はいかなるものでしょうか ー 聖パウロにいわく、天国の福楽は人が目に見たこともない、耳に聞いたこともない、心に思い浮かべたこともないほどであるとか。聖カタリナは天の片隅を覗いたばかりで、「私は人間の口に言い顕わすことできないほどの珍しいものをみました」とい、同じく聖テレジアも「一目天国を見せて戴いてからは、この世の美しいものや、珍しいものや、そんな物はすべて厭になった」といっていります。

 それもその筈で、全能の天主、天地万物を無より造り出し給うた天主が、その愛する臣下に、その可愛い子供に充分の福楽を与えたいと思召しになって、備え置かれた天国ですもの、人間の小ぽけな頭で考えられるような、拙(つま)らない、平凡なところであろうはずがない。実に聖ベルナルドもいわれた如く、天国には厭なものというは一つもなく、欲しいと思うものは何でもあるのであります。


(3)-天国には厭なものというは一つもない ー 我々の足が一たび天国の閾(しきい)を跨いだものなら、凡ての禍は一時に拭うが如く消え失せる。しかり、天国には怖ろしい暗(やみ)もなければ、肌を劈(つんざ)くような冬の寒さ、石をも溶かしそうな夏の暑さもない、ただ晴れ渡った昼ばかり、ただ長閑(のどか)な楽しい春ばかりである。天国には人から無理をされる気遣いがない、妬(ねた)みを受ける心配もない。

 天国の聖人などは皆相愛し、相楽しみ人の福を見ては我が身の福の如く喜んでいられる。天国には病の苦しみもなければ、貧の辛さもない。

 天国の聖人などは皆聖寵に固まっているから罪を犯す気遣いもない、天主を取り失う恐れもない、悪魔の誘に悩まされる憂いすらないのであります。



浦川和三郎司教「諸聖人の祝日」『祝祭日の説教集』

2024-11-15 21:27:41 | 浦川司教


(7)-終まで続いて望まねばならぬ ー 二三日の間、三四年の間、善を行っても、天国には昇れない、死ぬまでも続いて行わなければならぬ。「終りまで堪え忍ぶ人は救われるべし」(マティオ十ノ二二)と御主はいいました。ユダの如きも、始は善良な弟子でした、しかし終りまで続かなかったから滅んだのであります。

 「手を犂に着けて尚、後ろを顧みる人は神の国に適せざる者なり」(ルカ九ノ六二)とありましょう。実に今日は立派な決心をして天主に堅く堅く約束しているが、明日はもう何もかも忘れたかの如く、元の罪に逆戻りをするようでは到底天国に入るに適しないものであります。聖人などは皆終まで続いて行った方々である。今日は熱心にミサを拝聴する、明日はすっかり止めてしまう。今日は告白もし、聖体も拝領すべしと決心しているが、明日になると、その心は更に一つも残らないというようでなく、僅かな善業でも、根気強く続けて行われたから、天の限りなき御褒美をかたじけなうすることとなったのであります。

 しかるば天に昇るためには、心から、しかも今の中に、根気強くその福楽を望まなければならぬ。「主は我々なしに我々をお造り下さいましたが、しかし我々なしにお救い下さらぬ」と聖アウグスチヌスはいいました。すなわち我々の方から精を出して勤め、与えられた聖寵をよくよく利用して働かなければ、救霊を全うすることできない。それは辛い、到底やりきれないというような思いが起って来た時は、天国の福楽、その福楽の大なることを考えてみなさい。当てにもならぬこの世の幸福を得よう、夢のような快楽を求めよう、僅かばかりの目腐金を手に入れようとして、我々はどんなに精を出して働きますか。それに天の福楽を得るために、ちょっとやそっとの辛苦を恐れてなりましょうか。限りなき福楽じゃありませんか。終わりなき光栄、言うにも言われぬ快楽じゃありませんか。それを得るか失うかという大切な問題ですのに、等閑に放ったらかして置かれたものでしょうか。その上、いくら辛いといっても、聖寵の助けがあります。殉教者などは首を斬られ、火に焼かれ、鋸で引かれ等しても、天の福楽だけは失うまいと務められました。

 況して我々はそんなにえらい目を見せられるのではない、いくら辛いといっても、それは一時のことで、苦しみも悲しみも心配もいつしか終りを告げる。天の光栄や歓楽は限る所を知らないのであります・・・どうぞ皆さん、今からしばしば、天国を思いましょう。天国のために働きましょう。毎日毎日天国の倉に朽ちせぬ宝を貯えましょう。


(続く)