祝祭日の説教集
浦川和三郎(1876~1955)著
(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)
十 一 月 一 日
(三) 天 国 に 昇 る 道
(2)-昔イスラエル人はモイゼに引率されてエジプトを出ました。紅海を渡り、約束の地に向って旅立ちましたが、途中で少し食物に不足するとか、水が切れるとかすると、忽ち後を顧みて、エジプトを恋しがり、「ああエジプトに居れば可かったのに!」と呟くものですから、其の罰で殆んど皆途中で倒れてしまいました。皆さんも洗礼をお授かりになり、天国をさして旅立ちをして居られる、それに毎朝毎晩お祈祷をするのは面倒だ、毎日曜日ミサを拝聴するのは辛い、罪の機会 (たより)に遠(とおざ)かるなんて、それでは自分の好いたこともされず、言いたいことも言はれない、腹が立っても堪忍しなければならない、堪(たま)ったものでない、未信者は実に仕合せなものだ、言いたいことは言う、仕(し)たいことは為(す)る、寝たい時に寝、起きたい時に起きる、行きたい所えは行く、ああ自分も未信者であればよかった等と、そんな考えを起しなさるならば、それこそイスラエル人の弐(に)の舞をするのじゃありませんか。
イスラエル人が折角,紅海を渡りながら、約束の地に入ることできなかった如く、皆さんも、洗礼を受けて天主の愛子となり、天国を目指して進みながら、その天国に辿りつくことできないで、途中にのたれ死にをする救霊を失い、地獄に堕落する様な不幸に陥らないでしょうか。
是とても、つまり後を顧みたり、隣近所を眺めたりする結果に出るので、そんな事がない為め、この祝日の序(ついで)を以って、誰方も仰いで天をお眺めなさい、私は特にお勧め致します。