聖トマス・ベケット大司教殉教者 St. Thomas Becket Archiep. Mart. 記念日 12月 29日
主が嘗て御弟子達に向かい「わが為に汝等、官吏帝王の前に引かれて、彼等及び異邦人に証となることあるべし」と仰せられた御預言は見事適中し、爾来今日に至るまでの数え切れぬ迫害に、官吏帝王の前に引き出され、堂々信仰を宣言して殉教致命した信者の数多あることは、既に読者のよくご存じの通りであるが、ここに語る聖トマス・ベケットも英国の出した最も著名な殉教者の一人に外ならない。
彼の父はギルベルト・ベケットと言い、熱心なカトリック信者であったが、若い時聖地パレスチナへ巡礼しての戻りに、サラセン人の首領の奴隷にされ、その間にその娘マチルヂスに聖教を伝えたのが縁で、自由の身となってから彼女を妻に貰い受け、ロンドンへ帰って一子トマスを得た。その誕生は1118年12月21日のことであった。
トマスは生来頭脳明晰で、長じてフランスに留学し、パリ大学を優秀な成績で卒業すると英国に帰り、数年間は父と共に勤めていたが、後カンタベリーの大司教テオバルドの秘書に任命され、巧みに幾つかの難事件を解決した為、同大司教から時の国王ヘンリー2世に推薦され、王の援助の下にボローニャ及びオークセールの大学に遊学し、一層深く法学を修め、帰朝の後はカンタベリーの大助祭という栄誉ある位に挙げられ、1154年ヘンリー2世の即位式が行われるや、その御親任を受けて宰相の印授を帯びることとなった。
しかるに彼は聖会法並びに国法にかけては何人も及ばぬばかり明るく、正義を重んじ、王室の繁栄と人民の幸福とを念として忠実にその職務を果たしたから、王の彼に対する信任はいよいよ厚く、ついには太子の教育まで彼に託せられた程であった。
さてトマスは位人臣の栄を極め、富もまた之に適い、何不足ない生活を送ったが、かかる人の兎もすれば陥りやすい誘惑を巧みに逃れ、いやしくも清浄潔白の徳を害うようなことはなかった。そればかりか後にはその他人の目には華やかな、幸福らしく見える身分を心苦しく思い、罪の危険に富む宮廷の生活から逃れたいとの意中を、しばしばテオバルド大司教に漏らしたこともあったそうである。
そのうちにトマスが殉教の苦しみを嘗めなければならぬ時は刻々と近づきつつあった。ヘンリー2世は権勢欲が強く、ただ一国の元首たるに満足せず、宗教界にも勢力を得たいとの野心に燃え、教皇の権利を侵さんとしてその便宜上かのテオバルドの没後わが総理大臣なるトマス・ベケットを1162年カンタベリーの大司教(英国の首席大司教)に選んだ。
トマスはその重任に堪えずと頻りに之を辞退した。しかしあまりに懇望される故、とうとう就任を承諾するに至ったが、彼はその時から王に野望のあることを見抜き、王が聖会の権利を侵そうとする場合には生命を賭してもこれを保護せねばならぬと決心したのであった。
トマスは大司教となるや早速宰相の栄職を辞して従前の豪奢な生活を一擲し、代えるに質素、節倹を旨として修道者の如く大斉苦行に精励し、絶えず貧者の救済その他慈善の業に心を注ぎ、わが教区の為献身的に働いた、さればヘンリー2世は己の野望達成の手段として彼を大司教に任命した目算ががらりと外れ、大いに怒っていろいろとトマスを苦しめたが、彼は感ずべき忍耐を以て一切を甘受し、却って我につれない国王の為改心の恵みを天主に祈り求めた。
ところが1164年ヘンリーはクラレンドンに会議を召集し、トマスを始め多くの司教達に、王権の不法な伸張を承認させようとしたから、トマスは断固として之に反対したのに、王は烈火の如く憤って彼が大司教としての収入全部を没収し彼を国外に追放した。で、トマスはフランスのポンチニーにあるシトー修道院に身を寄せたが、王は同院の院長までも威嚇してトマスをなおも苦しめようとしたばかりか、彼の親戚の財産を没収したり、今は牧者を失った子羊の群、カンタベリーの教区民を迫害したりしたので、見るに見かねた教皇アレクサンデル3世が忠告すると、ヘンリーも流石に折れた風で、トマスの帰国を許すに至った。けれどもトマスは相変わらず王の無法な要求を拒み続け、よく聖会の権利を擁護したから、短気な王は彼に対する憎悪と憤怒に燃え、ある日「ああ、誰かあの不愉快極まる邪魔者を除く者はないか」と叫んだ。するとそれから数日後の事であった。トマスが大司教聖堂で聖務日祷を誦えている最中四人の騎士が闖入し、彼を打ち倒し、とうとうその生命を奪ってしまった。時に1170年12月29日。
この不祥事が一度信徒の間に伝わるや、誰とて聖会の権利の為犠牲となったトマス大司教を悼み、事をここに至らしめた王の罪を認めぬはなかった。即ちかの下手人なる四人の騎士は、直ちに聖会から破門されたが、王からは何のお咎めもなく、却ってその側近に召し使われた所から見ても大司教殺害の首謀者が王自身であることは明らかだ、世間にはそういう取り沙汰が頻りに行われたのである。
トマスの致命後、その取り次ぎによって起こった奇蹟は夥しい数に上った。それで彼はその帰天から僅か3年を経た1173年早くも列聖され、たちまち全世界に天晴れ殉教者よと称讃崇敬される身となった。
教訓
主宣わく「身を殺して魂を殺し得ざるものを恐れることなかれ、寧ろ魂と身とを地獄に滅ぼし得るもの(罪)を恐れよ」と。正義の為には一命を抛っても悔いぬ聖トマス・ベケット大司教は右の聖言のこよなき実物教訓である。我等も罪を恐れて正しく活きよう。そうすれば如何なる迫害も恐れるに足らず、死を見る事帰する如き、超自然的大勇猛心が得られるのである。
主が嘗て御弟子達に向かい「わが為に汝等、官吏帝王の前に引かれて、彼等及び異邦人に証となることあるべし」と仰せられた御預言は見事適中し、爾来今日に至るまでの数え切れぬ迫害に、官吏帝王の前に引き出され、堂々信仰を宣言して殉教致命した信者の数多あることは、既に読者のよくご存じの通りであるが、ここに語る聖トマス・ベケットも英国の出した最も著名な殉教者の一人に外ならない。
彼の父はギルベルト・ベケットと言い、熱心なカトリック信者であったが、若い時聖地パレスチナへ巡礼しての戻りに、サラセン人の首領の奴隷にされ、その間にその娘マチルヂスに聖教を伝えたのが縁で、自由の身となってから彼女を妻に貰い受け、ロンドンへ帰って一子トマスを得た。その誕生は1118年12月21日のことであった。
トマスは生来頭脳明晰で、長じてフランスに留学し、パリ大学を優秀な成績で卒業すると英国に帰り、数年間は父と共に勤めていたが、後カンタベリーの大司教テオバルドの秘書に任命され、巧みに幾つかの難事件を解決した為、同大司教から時の国王ヘンリー2世に推薦され、王の援助の下にボローニャ及びオークセールの大学に遊学し、一層深く法学を修め、帰朝の後はカンタベリーの大助祭という栄誉ある位に挙げられ、1154年ヘンリー2世の即位式が行われるや、その御親任を受けて宰相の印授を帯びることとなった。
しかるに彼は聖会法並びに国法にかけては何人も及ばぬばかり明るく、正義を重んじ、王室の繁栄と人民の幸福とを念として忠実にその職務を果たしたから、王の彼に対する信任はいよいよ厚く、ついには太子の教育まで彼に託せられた程であった。
さてトマスは位人臣の栄を極め、富もまた之に適い、何不足ない生活を送ったが、かかる人の兎もすれば陥りやすい誘惑を巧みに逃れ、いやしくも清浄潔白の徳を害うようなことはなかった。そればかりか後にはその他人の目には華やかな、幸福らしく見える身分を心苦しく思い、罪の危険に富む宮廷の生活から逃れたいとの意中を、しばしばテオバルド大司教に漏らしたこともあったそうである。
そのうちにトマスが殉教の苦しみを嘗めなければならぬ時は刻々と近づきつつあった。ヘンリー2世は権勢欲が強く、ただ一国の元首たるに満足せず、宗教界にも勢力を得たいとの野心に燃え、教皇の権利を侵さんとしてその便宜上かのテオバルドの没後わが総理大臣なるトマス・ベケットを1162年カンタベリーの大司教(英国の首席大司教)に選んだ。
トマスはその重任に堪えずと頻りに之を辞退した。しかしあまりに懇望される故、とうとう就任を承諾するに至ったが、彼はその時から王に野望のあることを見抜き、王が聖会の権利を侵そうとする場合には生命を賭してもこれを保護せねばならぬと決心したのであった。
トマスは大司教となるや早速宰相の栄職を辞して従前の豪奢な生活を一擲し、代えるに質素、節倹を旨として修道者の如く大斉苦行に精励し、絶えず貧者の救済その他慈善の業に心を注ぎ、わが教区の為献身的に働いた、さればヘンリー2世は己の野望達成の手段として彼を大司教に任命した目算ががらりと外れ、大いに怒っていろいろとトマスを苦しめたが、彼は感ずべき忍耐を以て一切を甘受し、却って我につれない国王の為改心の恵みを天主に祈り求めた。
ところが1164年ヘンリーはクラレンドンに会議を召集し、トマスを始め多くの司教達に、王権の不法な伸張を承認させようとしたから、トマスは断固として之に反対したのに、王は烈火の如く憤って彼が大司教としての収入全部を没収し彼を国外に追放した。で、トマスはフランスのポンチニーにあるシトー修道院に身を寄せたが、王は同院の院長までも威嚇してトマスをなおも苦しめようとしたばかりか、彼の親戚の財産を没収したり、今は牧者を失った子羊の群、カンタベリーの教区民を迫害したりしたので、見るに見かねた教皇アレクサンデル3世が忠告すると、ヘンリーも流石に折れた風で、トマスの帰国を許すに至った。けれどもトマスは相変わらず王の無法な要求を拒み続け、よく聖会の権利を擁護したから、短気な王は彼に対する憎悪と憤怒に燃え、ある日「ああ、誰かあの不愉快極まる邪魔者を除く者はないか」と叫んだ。するとそれから数日後の事であった。トマスが大司教聖堂で聖務日祷を誦えている最中四人の騎士が闖入し、彼を打ち倒し、とうとうその生命を奪ってしまった。時に1170年12月29日。
この不祥事が一度信徒の間に伝わるや、誰とて聖会の権利の為犠牲となったトマス大司教を悼み、事をここに至らしめた王の罪を認めぬはなかった。即ちかの下手人なる四人の騎士は、直ちに聖会から破門されたが、王からは何のお咎めもなく、却ってその側近に召し使われた所から見ても大司教殺害の首謀者が王自身であることは明らかだ、世間にはそういう取り沙汰が頻りに行われたのである。
トマスの致命後、その取り次ぎによって起こった奇蹟は夥しい数に上った。それで彼はその帰天から僅か3年を経た1173年早くも列聖され、たちまち全世界に天晴れ殉教者よと称讃崇敬される身となった。
教訓
主宣わく「身を殺して魂を殺し得ざるものを恐れることなかれ、寧ろ魂と身とを地獄に滅ぼし得るもの(罪)を恐れよ」と。正義の為には一命を抛っても悔いぬ聖トマス・ベケット大司教は右の聖言のこよなき実物教訓である。我等も罪を恐れて正しく活きよう。そうすれば如何なる迫害も恐れるに足らず、死を見る事帰する如き、超自然的大勇猛心が得られるのである。